十章 参の鏡 <Ⅴ>兄の覚悟

 お化け屋敷に明かりがともった。


 ――中に、誰かいる!


 桐原きりはら深雪みゆきは、人生最大の危機に直面してしまった。


 ――さっきまで俺と時雨しぐれがここにいたのに、いつの間に家の中に入ったんだ。

 お化け屋敷に誰かが入っていくところなんか見てない。見逃すはずがない。

 とすれば、そいつは最初から中にいた、ということになる。

 息をひそめて俺たちを見つめていたのか。例えばあのカーテンの隙間から。


 深雪の目尻に涙が溜まる。


 ――こんな処に来なければよかった。みんな時雨が悪いんだ。


 何も見なかったことにして家に帰ろうか。

 卑怯ひきょうな企てが、一瞬頭をぎった。


 ――莫迦ばかな! 妹が「ぬうん」に捕まってたらどうするんだ!


 深雪はこぶしを固めた。


 ――だがしかし。今から化け物と壮絶バトルして、時雨を取り戻して、魔界の迷宮ダンジョンから脱出するなんて、俺一人では絶対無理だ。早く親を呼んで来ないと……。


 心拍数が右肩上がりに高まっていく。


 ――いや、いや、いや!


 深雪は鼻の穴を広げて、恐怖を深く吐き出した。


 ――負の感情は肺に溜まる。怖いと思ったら深呼吸しろ、と師は仰った。とにかく結論を急ぐな。すべての可能性を洗い出すんだ。




 例えば。中にいたのは、忙しい不動産屋さんでした。


 営業時間前に中古物件のメンテナンスに来て、懐中電灯でブレーカーの点検をしていると、庭から子どもたちの声が聞こえる。

 オールバックの中年男性はビジネススーツの肩をすくめる。


「やれやれ。小さなお客様が内覧にお見えのようですね。まあ、良しとしますか。おい。誰が、ぬうんだ(笑)」指先でパチンとブレーカーを上げる。


 例えば。中にいたのは、この屋敷を遺産相続した外国の人でした。


 スティーブの伯母は、東洋のはずれの日本という国で晩年を迎えたが、何の気まぐれか、遠縁の甥に住み慣れた屋敷を遺した。

 初めて来日したスティーブは、風変わりだった伯母の屋敷で一晩を過ごしたが、翌朝目を覚ますと、現地の野蛮な子どもたちが庭で奇声を上げている。

 大変困ったけれど「ヤメテクダサイ」という日本語を知らなかったので、遠慮がちにそっと玄関の灯りをつけてみた。果たして日本人は火を恐がるのか。


 例えば。中にいたのは、時雨と子猫でした。


 子猫を追いかけて廃屋の真っ暗な室内に入った時雨は、なんの躊躇ちゅうちょもなく照明のスイッチを押した。


「スイッチオン! わーい、ネコー。明るいぞー!」


「にゃー」


 ――この可能性が一番濃厚だ。考えるとこれしかない。


 深雪は深く息を吐いた。


 ――このままでは怒られるのは俺だ。


 妹が他人の家に上がり込んで、照明のスイッチをONにした場合、一緒にいた兄は首謀者だ。無関係だという主張は九分九厘通らない。

 我が家の親は理不尽だ。一刻も早く妹(真犯人・莫迦)を連れて逃げなければ。


 チャイムが見当たらないので、深雪は玄関扉をノックした。

 優しい不動産屋さんに遭遇する可能性は排除しきれないし、或いは困惑した外国人かも知れない。


 コンコン。「こんにちは」


 返事がない。――聞こえないのかな。


 コンコンコン。「こんにちはー!」


 返事なし。――やっぱり誰も居ないのか。


 ドンドンドン。「ごめんくださーい! ごめんくださーい!」


 扉に耳をつけてみた。――静か過ぎる。


 ダンダンダダダン。ドドンドーン。「時雨! この野郎! 出てこい!」


 ――やっぱり、あいつの仕業だ。


 深雪は確信して叫んだ。「隠れても無駄だからな! かき氷! シモブクレ!」


 ――さあ来い。


 深雪は身構えた。

 キーワードは<シモブクレ>だ。あいつは必ず反応する。


 つかみ合いの兄妹喧嘩の末に、無理矢理に仲直りさせられた後で、脳内で密かに言語化しても、鋭く探知して襲ってくるんだ。

 しかし、いくら待っても扉は開かなかった。


 ――おかしい。これはおかしい。まさか妹の身に何かあったのか。


 ノブに手をかける。回らない。引く。押す。開かない。


 ――どうしよう。妹は絶対に中にいる。


 なのに鍵が掛かってるって、どういうことだ。


 そのとき、固く閉ざされた扉の内から、おぞましい獣の咆吼が響き渡った。


「時雨! どうしたんだ! 時雨! 開けろよ! 時雨!」


 深雪は錆びたノブに取り付いて、力一杯押し引きした。

 その瞬間、扉が内側に開いて、飛び出してきた時雨と鉢合わせした。


「時雨!」


「おにい!」


 恐怖で人相の変わった時雨が、深雪にしがみついた。


「どうした! 今の鳴き声、なに?」


「ドアが開かなくて、真っ暗で、死んだと思った!」


「それで、あの凄い声で咆えたの?」


「咆えてないよ!」


「いや。凄かったよ?」


「知らないよ!」


「なんで中に入ったんだよ」


「だって、猫がいたんだもん」


「おまえ、莫迦ばかじゃねえの。ここ、お化け屋敷だぞ」


「……」


「だから泣くなよ。勝手に余所よその家の電気つけるしよ!」


「つけてないっ! 真っ暗って言ったでしょ!」


「うそつけ。じゃ、あれは何だよ! って、あれ?」


 玄関扉の上の飾り窓は、元の通りに暗くなっている。


「消えてるな。おかしいな」


「帰る!」


 時雨は深雪のシャツのすそを、千切れそうになるほど引っ張った。


「わかったよ。変だなあ。なあ、ぬうん、いなかったろ? いたか?」


「いない! おにいのバカ!」



 しゃくり上げて歩く妹は、痛くもなさそうな足を引きずっている。仕方なく手を引いてやったら、ベトベトして気持ちわるかった。

 最後に振り返った廃屋は、来たときと同じように、巨大なクリスマスツリーのようなヒマラヤ杉の後ろで、眠りについたようにしずまりかえっていた。





 斜めにかしいだ街灯の下から、昔は潮風を浴びていた石段を登る。

 一歩ごとに国道の轟音が背後に遠のいてゆく。


 ――そういえば、小さい頃は面倒とも思わずに、いつもこの手を引いて歩いてたっけ。最後に手をつないだのはいつだろう。たしか時雨が一年生になった最初の一週間だ。並んで手をつないで登校したよな。もっと小っちゃい手だったのに。やれやれ俺も年取ったな。


「おにい


 時雨が呼んだ。


「なに?」


 深雪は横目で、まぶたがぱんぱんにれぼったい妹を眺めた。


「来てくれて、ありがと」


「……おう」


 妹と目が合った。


「――缶蹴り、一緒に行くか?」


「――いく」


 ――時雨を連れていくと、仲間に思わぬ歓迎を受けた。うちの妹の何がそんなに珍しいんだ。ともあれ、俺と時雨は大いに盛り上がって缶を蹴った。おかげで帰る頃には、時雨の顔も機嫌もすっかり治っていた。


 もちろん昼御飯は至福の二日目カレーだった。

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