十章 参の鏡 <Ⅱ>僕の

 ――痛い。とくに鼻が、ものすごく痛い。


 左腕が動かない。さっきぶたれたのなんか問題じゃない。

 痛くて痺れて、倒れたまま泣いていると、仮男かりおの足が階段を降りてきた。


「鏡はどこだ」


 ――まだ言ってるよ、こいつ。いい加減にしろよ。こんなに痛いのに、人でなし!


 鼻血にまみれた顔を引き起こされる。


「答えろ!」


 げげっ。髪が全部逆立ってる。超恐いサイヤ人。

 恐怖に身をすくめると、胸元で血に汚れたポケットが裂けていた。


 ――ヒミコさまのポケットが!


 さっきつかまれたときだ。こいつが裂いたんだ。

 ヒミコさまがここに入ってたのに。二度ともう逢えないのに。

 このポケットだけが思い出なのに!


 ――このドくさ莫迦バカ野郎!


 体が熱い。痛みがすっ飛んだあたしは仮男かりおの目をにらみつけた。

 てめえが泣くまで、二度とらさないからな。


「この莫迦ばかっ! バァッ、アァカッ!!!」


「……ば」傷ついたな。


「あんた、ヒミコさまに何すんのよ!」


「ヒミコ? なんだそれは? ……僕の鏡だ。お前が取ったろう!」


「取ったんじゃない! 落ちたんだい!」


 絶対ぶん殴ってやる。この野郎!


 この……、あれ?

 この……、この胸元が暖かいのはなぜ?


 なんでこんなにポカポカするんだ? ヒミコさまを入れていたときみたいだ。


 まさか、そこにいるの? 参の鏡!

 さっき転げ落ちたときに入ったんだろうか。


 ――しまった! あたしの視線に奴が気づいた。


「鏡はそこか?」


 ポケットに手が伸びてくる。

 肩が痛くて振り払えない。もうダメだ。取られる!

 ――と思ったとき、子猫が飛び込んできた。頭からポケットに潜りこもうとしている。可愛い! こんな状況だけど、もう可愛い!


 それにしても、こいつは仮男を助けているのか、邪魔しているのか。正直なところ、足手まといじゃないだろうか。


 仮男の手が、情け容赦なくリンのシッポを握って逆さに持ち上げた。やっぱり。

 子猫は哀れな悲鳴を上げて、くわえたものを床に落とした。


 濡れたように黒い石だった。

 

 小さくて平たい黒い石は、お父さんの腕時計の文字盤ほどの大きさだった。磨き上げたように滑らかな円い表面が、チカリと反射した。


 化け物の口角が、きゅうっと耳まで反りかえった。


「あああ、僕の鏡だあ」


 白い腕が長く伸びる。長過ぎる。


 だが。

 その指先が鏡に触れる寸前に、視界のすべてを緋色が覆った。

 はがれ落ちた緋色のタペストリーが、盛大に仮男とリンにかぶさった。


 大きなタペストリーが巻き起こした風にあおられて、小さな黒い鏡はくるくるとピルエットを踊り、倒れていたあたしの手元に来て止まった。


 参の鏡。どんな望みもかなう鏡。


 動かせる右腕を支えにして坐る。あたしのお尻のポケットには、ヒミコさまにあげるはずだった形代かたしろがあった。鏡の前に差しだすと、角の欠けた落雁らくがんは、陽炎かげろうのようにゆらいで鏡の中にするりと溶けた。


「我が名は、ヒミコのすえにして水神のつかいです!」


 あたしは、水神様に教えられた通りに、二人の名を唱えた。


「止めろ! 時雨しぐれ!」


 からみつくタペストリーを引き裂いて、蒼白の化け物が絶叫した。


 ヒミコさま。千の鏡のみんな。見ててください。


「封じられた魂が、みんな解き放たれますように!」

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