十章 参の鏡

十章 参の鏡 <Ⅰ>魔魅


時雨しぐれ


 背後から、突き刺すように名前を呼ばれた。


 この世の者とは思えない美しい少年が、半眼にまぶたを閉じて、唇に笑みをたたえている。床から朱いカンテラが、その蒼白な肌を照らしていた。


「なぜ、僕を呼ばなかった?」


 怜悧れいりな声音にとげが宿る。

 鏡の間に入る前とは別人みたいだ。


 少年が一歩近寄る。あたしは一歩退る。

 もう一歩近づく もう一歩、――壁だ。


 片袖が高くあがった。長い腕が剥き出しになる。

 かぎ爪のような指が、あたしの左肩にくい込む。

 ぬううんっと迫る白い顔が、真横からあたしの顔を、めるように覗き込む。


「あ? なぜ?」


 片目で見据える。まなこが闇だ。


「――だって。参の鏡が、見つからなかったから」


 顔をらそうとしたらあごをつかまれた。仕方ないから目だけ逸らす。――白目った。


いちの鏡と、の鏡は、見つかったのか?」


「見つけたけど」


さんの鏡はどこにあるって?」


「……。猫に訊けって」


「――猫だと?」


 猛毒のような禍々まがまがしい気配が立ち籠める。

 あたし、コロされちゃうんだろうか!


「なら、訊いてみろ!」


 少年がいきなり足元からリンをつかみあげ、あたしの顔に押しつけてきた。


「ギャフウウウ!」


 猫は唸り声を上げて身をよじり、爪を立てた後足であたしの顔を蹴った。


「痛いッ!」


 手でかばう間もなく、頬と唇に鋭い痛みが走る。血の味がする。

 あたしの手の甲の上から、容赦のない平手打ちが襲ってきた。


「なぜ嘘をつくっ! 鏡を返せっ!」


 あたしはほこりだらけの床に転がった。

 かすれた金切り声が耳の奧で、うわんうわんと反響する。

 顔の痛みよりも、少年の豹変ひょうへんが怖ろしかった。


「助けて!」


 這って逃げようとすると、肩紐をとらえて引き戻された。

 胸倉をつかんだ腕が、足のえたあたしを引きずり立たせる。

 ジャンスカの縫い目が鋭い音を立てて裂けた。


「返せ! 返せ! かえせ!」


「やだっ! 離してっ!」


 怖くてこわくて、全力でもがいて暴れたら、足元でパラパラと乾いた音が立った。

 何かが床に散ったようだ。


 途端に少年がその手を引っ込めた。火傷でもしたように腕を押さえている。


 ――なんで?


 スニーカーの底が耳障りな音で軋む。どうして廊下が砂だらけなんだろう? 


 砂? ――そうか! 道守みちもりの水晶だ!


 ヒミコさまが云ってた「神明の加護」ってこれだ!

 魔魅まみは、結界の水晶が痛いんだ!


 道守の柱が、粉々になって崩れ落ちたあのとき、パーカーのフードに水晶の粒がたくさん詰まっちゃった。裏返して捨てたのに、こんなにまだ残ってたのか。

 お母さんに叱られる。


 あたしは、エリマキトカゲのようにフードを立てて、力任せに振るった。

 そして床に落ちた砂粒を急いでき集めると、逃げ腰の魔魅に思い切りぶつけた。


「鬼は外! 魔魅は外! えい! えい! えい!」


 思った通り。敵は頭を抱えて、暗がりの奧に逃げていく。 


「やったあ! やあい! この、ヘタレ! この、カリオ!」


 調子にのって言いたい放題、捨て台詞。さあ逃げよう。回れ右。


「痛い、いたい、イタい!」


 アキレス腱が痛っ!

 なんだよ。子猫が噛んでるよ。短い足で踏ん張ってるよ。


「こら、離しなさい!」


「M! M! M!」


 なんか言いながら噛んでるよ。

 見て。これ、可愛いー。いや、それどころじゃなくて。


「リン! 離して!」


 可哀想だけどシッポをつかんだら、猫は反転して噛みつこうとした。

 よし、作戦通りだ。かかとから牙がはずれたところで、シッポをパッと放した。


「フウウアアアオオオウ!」


 毛を逆立て、猫怒る。


「先に噛んだの、リンでしょ! 怒ったって知らないんだからね!」


 猫と戦っている間に、仮男が戻ってきてしまった。

 目が真っ赤に充血して、カパッと口を開けて、人間じゃない生き物になっていた。


「あれは僕のしろだったんだ!」


 ヨリシロって何だよ。知らないよ。恐いよ!

 周章あわてて後退あとずさったら、階段の手前で転んだ。

 あたしは、あやうく吹き抜けの手すりにしがみついた。


 ――待って! いま、なにか、光った!


 キラリと光るものが、視界の端で揺れた。

 踊り場の壁だ。緋色のタペストリーの上の方だ。


 クリスマスツリーの天辺に何か光っている。ベツレヘムの星の縫い取りから、ちょこんと顔を覗かせている。


 ――参の鏡だ。


 直感した。でも、なぜこんなところに? 

 後に目を遣ると、仮男が今にもつかみかかろうとしている。


「キシャー!」


 あたしは、両腕を高く上げて威嚇した。

 敵がふるんで一歩下がった。マジか。


 その隙に、踊り場まで駆けおりる。

 サイドボードに飛びのって、思いっきり手を伸ばす。指先が縫い取りに触れた。


 ――足首をつかまれた。


 一瞬、宙に浮いた。

 つかみかけたタペストリーの布が、指からり抜ける。

 あたしの周りで、壁と床と天井と階段が大音響で、でんぐり返った。

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