九章 千の鏡 <Ⅱ>二つの名

「うそ?」


「ヒミコは我が子を救えなかった。その無念が呪いとなって、己の魂を鏡に封じ込めたのだ」


「自分で自分を?」


「我が身を呪ったのだ」


「そんな――」


 あたしはヒミコさまの泣き顔を思い浮かべた。

 そんなに、そんなに悲しかったんだ。かわいそうなヒミコさま。


「ヒミコさまは悪くないのに――」


 あたしは拳を握りしめた。


「鏡の間の千の鏡に宿る魂魄こんぱくは、みな我と我が身を呪った者たちだ」


 水神様の穏やかな声が話しはじめた。


「呪われた鏡は、耐え難い重みに地下深くへと沈みこみ、いつしかこの鏡の間へとやってくるのだ。わしはその昔、千の鏡の魂魄たちを救わんとして、この鏡の間へおもむいたが、これまでに救えた魂魄はほんの僅かであった」


「水神様はここに、みんなを助けにきてくれたんですか?」


 なんていい人ってか、いい神様なの!


「呪いから解き放たれるには、己を鏡に封じているのが、己自身だと気づくしかないのだが、苦しみの深い者ほどめしいておる。おぬしはヒミコにそれと気付かせた」


「あたしが? ヒミコさまが言ってたのは、そのこと?」


「そればかりではない。ヒミコがおぬしを救ったとき、ヒミコの過去の大願たいがんまでもが叶ったのだ」


「ヒミコさまの大願って……?」


「その身に替えて、我が子を救いたいという願いだ」


 ――吾がすえを救うたぞ! 


 さっき、ヒミコさまは笑っていた。


「さきほど、花が散華さんげしたであろう」


「はい。雪みたいで、とても綺麗でした」


「あの花たちは、浄化した鏡の魂だ。おぬしとヒミコのやり取りに感じて、浄化した鏡の魂がいくつもあったのだ」


「え、それって。まさか、ヒミコさまも?」


「おぬしの手に触れた花だ」


 あれが――。

 あたしのてのひらで消えたあの花びらが。

 あたしは、ヒミコさまが触れた掌を、頬に押しあてて泣いた。


「それなら、ちゃんとお別れが言いたかった」


 ――ヒミコさま。ヒミコさま。ありがとう。


「ヒミコのすえよ。おぬしは、この水神に為し得なかった尊きわざをなしたのだ。その褒美に、吾が名を与えよう」


「名前って?」


さんの鏡のあるじは先頃より行方知れず。ゆえに鏡は音無しの鏡となり、物も言わずに取り込もうとする。おぬしは参の鏡に真向かい、すなわち告げよ。『我が名はヒミコのすえにして水神のつかいなり』と」


「ヒミコの裔にして水神の遣い?」


「名が二つあらば望みも二つ叶う。一つの名において家に帰り、いま一つの名において、おぬしの望みを叶えるがよい」


「あたしの望み? なんでもいいんですか?」


「我が名ゆえ」


「すごい! やったあ! ありがとう! 水神様!」


 あたしは嬉しくてぴょんぴょん跳ねた。

 跳ねながら、ふと見ると、蛇の頭のロウソクが、にわかに炎を膨らませ、揺らめいている。


 ――ヤバくね? これって、消える寸前じゃない?


刻限こくげんだ」


 水神さまが言った。


「待って! 水神様! 参の鏡は?」


「猫に訊くがよい」


「猫って?」


 さっきまで、足元にいたリンがいない。


「さらば」


「えええっ? さらばじゃないよ! 鏡はどこっ?」


 亀さまっ! 水神様ってばよっ!

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