九章 千の鏡

九章 千の鏡 <Ⅰ>望みはひとつ

「知りたくありません!」


 あたしは足をばたつかせた。

 悔しくて悲しくて、頭の中がグチャグチャだ。


「あたしの代わりに、あたしのせいでヒミコさまが……」


 元々の鏡の呪いも解けてないのに、鏡ごと次の鏡に取り込まれるなんて。

 ヒミコさまは、どうなってしまうんだろう。


 頭を抱えてうずくまると、肘の隙間からもぐりこんでくる奴がいる。

 リン、ちょっとどいて。


 ――さんの鏡は、どんな望みも叶うんじゃないか?


 いきなり、あたしの頭がヒントをくれた。

 それだ! 参の鏡に頼もう!


 あたしは、リンを押しのけて立ち上がった。


 一歩離れた位置から、水盤に向き合うと、亀の甲羅がちらりと見える。

 青磁の蛇は、いまは動かずにじっとしている。

 恐くて膝が震えたけど、あたしは深くお辞儀をして、息を吸い込んだ。


「水神様。お願いします。やっぱり教えてください!」


「参の鏡に何を望む」


 水の中から、水神様が言った。


「ヒミコさまの呪いを解くんです!」


「家に帰るのではないのか。叶う望みはひとつだ」


「あ」もう一回しゃがむ。


 そうだった。望みの鏡が叶えてくれるのは、一生に一度ひとつだけ。

 望みをヒミコさまを助けるのに使っちゃったら、あたしは鏡の間から抜け出せるだろうか?


 ――鏡の間 入っちゃったら 枯れ果てた


 詠んでどうする! 嫌だ、嫌だ! 物凄く怖い!

 お母さんとお父さんと深雪の笑顔が目に浮かぶ。今すぐ「ただいま」って家に帰りたい。あたし、なんでこんな非道い目に遭ってるんだよお!


 ――ヒミコさまは家に帰れって言ってたし、子供としてはそうするものかなあ?


 ――そうしたいかも。そうする? 


 あたしは誰に訊いてるんだ!

 わああああ! どうしたらいいのか分かんないよお!


 またリンが覗いている。もの言いたげな丸い目。

 まさか、鏡の間の魔力を得たリンが、ついに人の言葉を?


「ど、どうしよう、リン?」


「にゃあ」


 ――相談しなきゃよかった。

 

 ため息と一緒に膝を抱えたら、ぺちゃんと胸ポケットが潰れた。

 お気に入りのポケットは、鏡の重みですっかり生地がたるんで皺が寄っている。

 ここにヒミコさまがいたんだ。たった今まで。


 凍った岩屋で裸足で祈っていたヒミコさま。

 ヒミコさまは、どれだけ鏡の中にいたのだろう。自分を責めながら、悔やみながら、永遠に雪の降る故郷を見つめながら。


 ――真子の命を取り戻したかった。


 みんなのために泣いていたヒミコさま。


 ――さればこそ!


 怒ってたヒミコさま。


 ――吾がすえを救うたぞ!


 あたしのために水に沈んでいったとき、笑っていたヒミコさま。



 ――だめだ! ヒミコさまを、もう一人ぼっちになんかできない!



 あたしが水盤に歩み寄ると、蛇の尻尾が微かに揺れた。


「水神様。ヒミコさまを助けてください。あたしの望みはヒミコさまです。ヒミコさまの呪いが解けたら、あたしは家に帰れなくてもいいです!」


 涙で水盤がかすんだ。帰れなかったら、ごめんね、みんな。




 ――コポコポ、ポンポ、コポ。


 どこからか泉が湧くような音がした。リンの耳がクルクル回る。

 水面にあぶくが次々に浮かんできた。

 あぶくがはじけると、ポコンと鼓を打つような音が鳴った。

 水の中を覗いたら、目を細めた亀が大きく口を開けて笑っている。


 ――神様も笑うんだ。


 水神様が笑ったら、ロウソクがユラユラ揺れた。笑い声の泡が、プクンプクンと次々に弾ける。声は高い天井に昇って、こだまになった。

 こだまは、いくつもいくつも重なりあって水盤の間を満たした。

 水神様の声だけではないみたいだ。誰が一緒に笑っているんだろう。

 大勢の人の楽しげな笑い声が水盤の間にさざめいた。

 まるで水晶の大樹そのものが、体を揺らして笑っているようだ。


 そのとき。

 高いところから、光の欠片かけらのような花びらが、ひらひらと降りてきた。

 そっとてのひらに受けると、淡雪のように消えた。


 なんて綺麗なんだろう。

 切なくて胸が苦しくなった。


 見上げると、またひとつ、もうひとつ。神様たちが笑うほどに、天から花びらが降りてくる。いくつもいくつも舞い降りてくる。

 花びらはリンの鼻先にも、ひとつ、くっついて消えた。


 笑い声と花吹雪がおだやかに静まると、水神さまの声が告げた。


「ヒミコのすえよ、おぬしの望みは成就した」


「ジョウジュってなんですか?」


「望みがかなったということだ。ヒミコの呪いは既に解けた。解いたのはおぬしだ」


「うそ! なんで? あ、なんでですか?」


「そもそも、誰がヒミコを鏡に封じ込めたのか」


「誰って、神様が……」


「神ではない」


「ちがうの? そしたら誰が――」


「ヒミコだ」


 水神様が言った。

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