八章 弐の鏡 <Ⅲ>水盤の間

 濡れない雨の森をゆく径は、しずかに勾配こうばいを上げる。


 細径は、やがて狭い岩棚の石段へ形を変えた。

 大きな段はよじ登り、小さい段は、ていっ! と跳ぶ。

 さり気なく混ざる下りに、その度、あたしは激しくつんのめった。


 だんだん曲がり角が多くなった。ぐるぐる螺旋階段をめぐってるみたいだ。

 ふう。膝がかくかくしてきたぞ。転んでヒミコさまの鏡を落としたら大変だ。

 足元を気にしながら登ってゆく。息が上がる。太腿が痛い。でも、頑張る。


 下ばかり見ていたから、いつから周りが明るくなったのか気づかなかった。


 ――あれ? 待って。ここって! 


 顔を上げて見回すと、いつも間にか石段の左右が、くもりガラスのような厚い壁で囲まれていた。触ってみるとひんやりと冷たい。これって水晶だ。


 ――ここってもう、心柱しんばしらの内側だ!


「こなたはいづくぞ」


  (ここはどこですか?)


 タイミング良く、ヒミコさまが訊いた。


「ヒミコさま! 鏡の間の心柱に着きました。いま、柱の中を登っています」


「頼もしきかな。さればこそ吾がすえじゃ」


「ありがとうございます!」


 やった。伝説の女王様に褒められたぜ。

 得意になったあたしは、太腿の痛みも忘れて先を急いだら、思い出した。いてて。


 いま登っているのは、木でいうと、樹皮より内側の幹に差しかかったところ。

 まるで年輪のような螺旋階段だった。


 階段は、だいだい色に淡く輝く壁にはさまれ、見上げる高い天井はかすみのような闇がおおう。おごそかな太古の神殿の回廊を思わせた。


 壁の輝きは、高く登るにつれて色味が薄れ、明るく白く透き通っていく。

 あたしは、いつしか自分の影を見失った。


 空中を漂うような浮遊感覚に目眩がする。なんだか気が遠くなっちゃった。

 いかんいかん。頑張れ、あたし。弐の鏡の在処はいずこぞ。

 ――ヒミコさま語がうつっちゃった。


 雲の中を漂うような足取りで、ふわふわと歩いていくと、行く手に円い穴が現れた。エナガの巣のような穴だ。あたしはポケットに呼びかけた。


「あった! 見つけた! ヒミコさま。入り口がありました!」


の鏡の在処ありかぞ!」


 ヒミコさまがはずんだ声で応えた。


「さればこそ?」(やっぱり?)


 どきどきしながら、丸い穴をかがんでくぐった。

 



 水の匂いがする。


 円い部屋の大部分を、大きな青磁せいじ水盤すいばんが占めていた。

 光をたたえているような澄んだ水だった。


 水盤のふちはあたしの胸の高さまであった。

 春霞はるがすみの空のような青磁の色に胸が震える。なめらかな磁器の肌にそっと指を滑らせる。


 この部屋の天井は明るい。

 でも、すごく高い。細長い花瓶の底にいるみたい。


「ヒミコさま、部屋に入ったら綺麗な水盤がありました!」


「水盤とな」


「大きくてとっても綺麗な青磁の水盤です。外側が秘色色ひそくいろで、内側が藍を含んだような白なんです。……あれ? 蛇がいる!」


「あやうきかな!」(危ない!)


「ううん。大丈夫。生きてないの。蛇の形の縁飾りなの」


 青磁の蛇は、丸い目元が可愛いかった。長い蜷局とぐろで水盤の縁をくるりと一巻きして、余った尾を首にからめて垂らしている。

 鎌首かまくびは水盤の中央へ高く差し伸ばし、平たい頭の上には、短いロウソクを灯していた。


 全身のうろこ模様の凹凸おうとつまで繊細に刻まれ、背中は秘色色でお腹は藍白だった。ちなみに秘色色というのは、青磁のうすい水色のこと。昔は高貴な人しか身に着けられなかった色なんだよ。


「可愛い青磁の蛇が、頭にロウソク乗せてます」


「みずがみ殿の灯りじゃ。近くにの鏡があろうほどに。いきなり顔を真面まおもてに映さぬように気をつけよ」


合点がってんだ」


 お尻のポケットから落雁らくがんを取り出して握りしめた。

 ヒミコさまに使わなかったから、二個そのまま残ってる。和三盆わさんぼんの甘やかな匂い。これって食べたら美味しいのかな。


「壱の鏡のときみたいに、もう水晶の外に出ているんですか?」


「さあて」


 ――ノーヒント?


 こんどはどんな鏡なんだろう。油断できないな。


 右手で水盤の肌に触れながら、中腰で泳ぐように一周する。

 細心の注意を払いつつ、マオモテに映らないように、鋭い横目遣いで左側と床を眺める。事情を知らない第三者が見たら、かなり挙動不審だ。――誰も通りかからないだろうけど。

 半周したら横目が限界で、顔が引きつってきた。


「あったか?」


「まだです。不思議。ここには鏡が、一個もありません」


 入り口は、あたしが入ってきた穴がひとつだけ。

 水盤の間は、うちのリビングより少し狭いくらいだけど、空中立ち泳ぎは予想以上に疲れる。

 残りは半周、這って回ろうかな。

 床に手をついたところで、顔に白いフワフワしたものがぶつかってきた。


「にゃあ!」

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