八章 弐の鏡 <Ⅱ>雨の森

 家に帰ったら「鏡の森の冒険」を書こう、と思いながら歩く。


 鏡の森に分け入ると、そこはまるで凍りついた竹林のようだった。

 洞窟の高い天上に向かって、無数の水晶が細長い先端を突き上げている。そして天上からも、そっくり同じ形の竹林が、鏡に映したように地上へ穂先を伸ばしてくる。


 森の中央にそびえる水晶の大樹に向かって、あたしの歩いている細い径は、ゆるやかな螺旋を描きつつ、この丸い丘をめぐってゆくのだ。


 大樹に近づくにつれて、森の水晶が次第次第に細くなっていった。孟宗竹の太さだったものが、だんだんボールペンくらいになり、最後は糸みたいになった。

 繊維のような結晶がキラキラ輝いている景色は、まるで真夏の夕立が降りしきる一瞬をストップモーションで撮ったみたいだ。

 あたしは、この場所を「雨の森」と名付けた。

 ――だけど、これって迷路じゃないよね? 誰か違うと言って。


 そういえば、リンはどうしただろう。


 ヒミコさまに怒られて逃げていったきりだ。

 扉まで帰れたといいけど。まさか、崩れた道守の柱に――。


 いやそんなこと、考えたらいけない。


 大丈夫! 今頃シグレ(仮)に抱っこされてるに違いない。

 あたしの付き添いという大事な任務を放り出して怒られてるかな。

 子猫に付き添われるポジションも哀しいけれど。


 なんだか胸が暖かい。ポケットの中には、ヒミコさまがいるんだ。

 あと少し頑張ったら、あたしはヒミコさまと家に帰るんだ。


「わごぜを鏡の間に寄越した者は何者ぞ」


 ヒミコさまが胸元からあたしに問いかけた。


「今日、初めて会った男の子なんです。偽名だと思うけど名前は――」


「いや、待て。ここでその名は呼ぶな」


「え?」


「鏡の間で名を呼ばれた者は、鏡とえにしが結ばれる。迂闊うかつに呼んではならぬ」


「そうなんですか?」


の子とな?」


「はい。とても綺麗な、わたしより少し大きい子です」


まどわされるな。鬼は化ける」


「え、鬼?」


 ――仮男かりおが鬼? そんな陽気なタイプには見えなかったけど。


形代かたしろがあるならば、おのれが来ればよいではないか。ここに入れぬ理由はなんじゃ。じ気たか、けがれの身か。魔魅まみやも知れぬぞ」


「マミって?」


「人をたぶらかす悪鬼を、魔魅という」


 ――お洒落。そっちかも。雰囲気的に。


「鏡の間に入り込んだ者のほとんどが、いちの鏡を見い出せず、のがるることあたわず朽ち果てた。そやつは、鏡の間の恐ろしさを知る者。鏡の呪いをける術を心得る者。己が望みの前には、幼子をくらき道に迷わせるもいとわぬ者じゃ。あな憎し。ひとでなしめが」


「でもヒミコさま、マミの奴、あたしに形代かたしろを二つもくれましたよ」


「なんということじゃ。一つ足りぬではないか!」


「あれっ?」


さんの鏡で、何とするつもりであった」


「あ、そうだ。参の鏡を見つけたら、鏡に話しかけずに自分を呼べって云われたんだ」


「さればこそ!(それごらん!) 童女をそそのかし、難業をいた挙げ句に、己ばかりが望みの鏡と、縁を結ばんとする企みじゃ。小癪こしゃくな魔魅よ。参の鏡を手に入れたが最後、わごぜを決して生かして帰すまい」


 ――恐い。怒りのヒミコさまは、うちお母さんのレベルを軽く越えている。


「わかりました。マミに見つかる前に、速攻で、参の鏡を見つけて家に帰ります」


「よくぞ申した。ふうう」ヒミコさまが大きく息をついた。


「ヒミコさま、どうしたの?」


「鏡に宿ってより名乗れとばかりの一言主ひとことぬし。これほど語ったのは幾百年振りじゃ。なにやらすがしき心地こそする。あはれ、わごぜをわずらわせたか?」


「そんなことありません。ちょっと恐かったけど」


「あなや」


 ヒミコさまとあたしは、一緒に笑った。


「そうだ。ヒミコさま。――聞いてください」


 あたしはその場で立ち止まり、壱の鏡をポケットから出した。


「どうした」


 ヒミコさまと、真面まおもてに向き合った。


「あたしの名前は、桐原きりはら時雨しぐれです。名字が桐原で、名前は時雨といいます」


 ヒミコさまがたもとで口元を押さえた。

 あたしはヒミコさまと結べたえにしが嬉しかった。


「きりはらのしぐれ。良き響きぞ。そうか。しぐれと申すか」


青桐あおぎりの桐に、野原の原、時の雨と書きます。時雨は、冬の初めに降る雨の名前です」


 ヒミコさまが、目を潤ませて頬笑んだ。


「めでたきかな。時雨に濡るる紅葉より美しきものがあろうか。時雨来て、秋の名残をはらきよめれば、深山みやまに神ぞおわしまする。なんと美しき名であろうか。よくぞ教えてくれた。時雨や。」


 ヒミコさまに呼ばれたら、自分の名前が尊くなった。

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