七章 鏡の呪い <Ⅵ>贈物(たまもの)


「わざとじゃないもの! ヒミコさまは、鏡をけがそうとしたんじゃないもの!」


 ヒミコさまは、はじめて会ったときのように目を丸くした。


「あのとき、ヒミコさまは、自分の命と引き替えに、その子を助けて下さいって、神様にお願いしたんだから!」


「まさか……。わごぜに、吾の祈りが聞こえたというのか」


 ヒミコさまの声が弱々しくふるえた。


「うん! 聞こえた!」


 あたしは必死にうなずく。


「――この命を差しあげます。どうか、あの子を返してください。――ヒミコさま、あのとき、そう言ってたよね。あたし、聞こえたんだもの。ヒミコさまの声が」


 ヒミコさまは、よろよろとくずおれた。


「――聞いてくれたか」


 あたしの腕にすがって、ヒミコさまが嗚咽おえつした。


「あのとき。もはや神に供える物とて、なにひとつもない。

 かくなる上は、この身に代えて真子まこを救わんと――。

 血が、神のみたもうけがれ、ということさえ忘れてしもうた。

 なれど。老いさらばえた命ひとつ捧げたとて何になろうか。

 この通り、吾はいたずらに神の怒りに触れて――」


 あたしは自分がくやしかった。

 大好きな人が泣きむせんでいるのに、何もできないなんて。

 ヒミコさまを助けたいのに。苦しみを消してあげたいのに。


 うずくまった小さな体。

 抱きかかえた自分の手が糸みたいに頼りなくて、どうしようもなく情けなかった。


 ヒミコさまが、絞り出すように言った。


「滅びる村もあれば、生まれる村もある。

 生まれいずる命があればこそ、消え去る命もある。

 形在るものはみな壊れ、新たなるものが形作られる。

 この世とは、常とは、そうしたものじゃ。

 己ばかりが栄え続けんとすれば、他がゆがみ、そのしわ寄せは、巡りめぐって、いつか必ず己へと届く。

 むなしき願いに欲深くして、吾が呪われるのも自業自得よ」


「ヒミコさまは、欲張りなんかじゃない!」


 あたしは、ヒミコさまの背中を揺すった。


「だって、ヒミコさまは、みんなを守ってくれたんじゃないか! そりゃ、いつかは滅びるかもしれないけど、だからって、消えちゃってもかまわない命なんか、生まれてこないよ!」


「だが――。世の母の願いがすべて叶えられたら、誰一人、死ぬ者がおらぬ。それでは根の国の神が、お困りになろう」


「子どもを守ってくれるお母さんの、どこが欲張りなの?」


 あたしは神様を憎んだ。


「守りたかった。あの子等を守りたかった」


 ヒミコさまが泣いている。


「それがどうしていけないの? 子どもを守りたいって、なんで祈っちゃいけないの! ヒミコさまは悪くないよ! なんで、こんな鏡に閉じ込められなきゃいけないの!」


 あたしは遠吠えするように泣いた。神様に届けばいいのに。


「泣いてくれるか。うれしき哉。うれしき哉」


 ヒミコさまを抱きしめていた筈なのに、いつの間にかあたしの方が、親鳥の翼のような暖かな袖に包まれていた。泣きじゃくるあたしの背中を、ヒミコさまの掌が心地良いリズムでさすってくれている。


 その手がふと止まった。


れぞ、吾が鏡のようじゃ」


「え、あたし、ヒミコさまに似てる?」


 ほほ、とヒミコさまが笑った。

 その頬の笑い皺を涙が伝っていった。


「まこと、こころ良きかな。あれほど荒れて止まなんだ胸の嵐が、いまはいでおる。有り難いことじゃ。わごぜと相語あいかたらいて、何もかも分かった」


 ヒミコさまが晴れ晴れと笑っている。

 頬はまだ濡れていたけれど。


「何が分かったの?」


「神は呪わぬ。人が吾が身を呪うのじゃ」


「なんのこと?」


 ヒミコさまの両手が、あたしの手をしっかりと包んでくれた。


「吾が子よ、お聞き。鏡に吾が身を封じたのは吾であった。鏡に取り込まれてより、いま初めて、かく悟った」


「それって、神様のせいなんでしょう?」


「いや、神ではない。分からぬか」


「全然分かんないよ」


「そうか。いつか分かる日もあろう」


 ヒミコさまの瞳は、冴え冴えと輝いていた。

 あたしはなぜか、月蝕の後、地球の影から現れる満月を思い出した。


「あな、めでたや。すべてはわごぜの賜物たまものじゃ」

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