七章 鏡の呪い <Ⅴ>鬼のお面

「何を申す?」


 ヒミコさまが、潤んだまなこを見開いた。


「だって。呪いって、怒ることでしょう?」


 なにを言い出すんだ。あたし。 


「怒ることとな。――ふむ。同じではないが、怒りと呪いは、ひと続きじゃなあ」


「あたし、本気で怒ってる人の顔を知ってます。とても恐くて……ゆがんでるの」


 ヒミコさまが苦しげに眉を寄せる。


「吾の顔も歪んでおったろう」


「ううん!」


 あたしは夢中で頭を振った。

 そうだ。一番にそれを言いたかったんだ。


「歪んでなかった! ヒミコさまの顔は、とっても綺麗だった。だから――」


 最後にヒミコさまは、とても美しい目をしたんだ。

 遙か遠くにあるなにかを、一心に思い浮かべようとするような、澄みきった眼差しだった。だから――。


「だから。あれは呪いじゃないの!」


 ヒミコさまの眼差しが戸惑ったように揺れる。

 あたしが思っていることは、ちゃんと伝わるだろうか。

 あたしはヒミコさまの白い袖の端を握り締めた。


「ヒミコさま! あのね。あのね。――あたしが小さい頃、お父さんとお母さんが喧嘩したの。お父さんが『行ってきます』も言わずに、ドアをバンって閉めて出て行っちゃって、それをお母さんが黙って見ていたの。それで、あたし、お母さんのそばに行ったの。そしたら、お母さんの目が。――逆さまに釣り上がって。――目尻がぎゅうっと上がって。――顔が歪んで。お母さんじゃない人になってたの」


 あのときの、母の怖ろしい顔を思い浮かべたら、動悸が激しくなった。


「そうか、そうか。――それで、わごぜはどうしたの」


 ヒミコさまは柔らかなてのひらであたしの掌をくるんでくれた。


「あたし、『お母さん。顔が怖いよ』って言ったの。そしたら、お母さんが『えっ?』って、あたしを見て、パチパチってまばたきしたら、いつものお母さんの顔に戻ったの。それで『ごめんね』って、変な顔で笑ったの」


「そうか、そうか」


 ヒミコさまが優しげにうなずいてくれた。


「それでね。そんなこと全部すっかり忘れた頃に、小学校のバス遠足で博物館に行ったの。そしたら、そこに昔のお面がたくさんあって、あのときのお母さんに、そっくりのお面があったの。目がつり上がって歯を食いしばって、ぎゅうって、もの凄く歪んでる顔。鬼のお面って書いてあった」


 鬼のお面には角が生えていた。

 角の部分だけが本物で、まだ生きているように見えた。


「怖かった。怒った人は鬼になるんだって思った」


「鬼」


 ヒミコさまがまぶたをつむった。

 あたしは、その掌をきつく握りしめた。


「ヒミコさまは、鬼じゃなかったよ! 全然恐くなかったよ!」


「そうか。――吾は鬼ではなかったか」


 瞼を開けたヒミコさまの唇が頬笑もうとして震えた。あの日のお母さんのように。




「岩屋の奥津城おくつきで祈りを捧げ、村に戻ると、眠っていた子が、事切こときれておった」


 細い指先を胸に押しあてて、うつむいたヒミコさまの頬を涙が幾筋も伝わった。


「取り戻したかった。真子まこの命を取り戻したかった」


「ヒミコさま、それは呪いじゃないよ!」


 だが、ヒミコさまは、かぶりを振った。幾度も。幾度も。


いなや、いなかなわぬと知れた祈りなど、呪いと変わらぬ。それに血が。この血が、鏡をけがしたのじゃ」


「違うよ! だって、あれは!」



 ――あれは、事故だ!

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