七章 鏡の呪い

七章 鏡の呪い <Ⅰ>紅い雫の鳥居

 もうムリ。

 足痛い。胸痛い。もっと酸素が吸いたい。止まらない汗が気持ち悪い。


 坂の頂上でへたり込んだら、二の腕の筋肉が痙攣している。

 重たい銅鏡を抱えての登り坂ダッシュ。自己ベストの数倍早かった、ていうか、こんなことはじめてやった。追い詰められた人間は強いって、本当だったんだ。

 よくやった、あたし。誰かたたえてくれ。


 いちの鏡が転げないように地面にそっと据えて、隣に仰向けに寝そべった。

 パーカーのフードが重い。――うわ。水晶の粒で一杯だ。髪も体も水晶まみれだ。


 頭上には、神社の鳥居とりいにそっくり水晶のアーチがあった。

 二本並んだ紅い水晶の柱を、笠木のような二本が繋いでいる。

 アーチの間から、水晶の大樹が逆さまにそびえていた。


 そのアーチに、あたしは「紅い雫の鳥居」と名付けた。


 見下ろすと、さっきまで坐っていた辺りは、砂に厚く覆われて海底のようだ。

 ライラック色の二本の柱は跡形もなかった。

 逃げ遅れたら助からなかったと思うと、軽く気が遠くなった。


「あやうきかな!」


  (危ないじゃないの!)


 壱の鏡から、ヒミコ様がわめいた。


「いかでしてでけるか。打ち捨てれば、良きものを!」


  (なんで連れて逃げたりしたのですか! こんな重い鏡なんぞ、ほっぽり出しゃいいのに!)


 甲高い声がキンキン響く。なんであたしは叱られているの?


れ者! 御身おんみいたわるべし!」


  (大莫迦者おおばかもの! 死んだらどうするの!)


「なによ、もう! 何言ってるか、分かんないよ!」


 言い返しちゃった。

 だってもう怖かったし、わけ分かんないし、一人だし。足痛いし、胸痛いし、一生分走った気がするし。リンはどこか行っちゃうし。


「なんで……怒鳴るのよう」


 喉がつかえた。じわっと湧いてきた涙が、後から後から溢れてくる。

 自分ルールがなんだ。あたしは、声をあげて泣き喚いた。

 赤ちゃん泣きするのは久し振り。やってみたら、思いがけず爽快だった。


「あなや。これ、童女、を泣きたもうな」


  (まあまあ。これ娘や、そんなに泣かないで)


 ヒミコさまの声が優しくなった。でもあたし、急に泣き止むとかできないから。


「これ、わごぜ」


  (これ、お嬢ちゃん)


「だって。ヒッ、ヒッ、ヒミコさまが怒るんだもん」


「わごぜを、案じればこそ」


  (あなたの身を心配しているのに)


「頑張って走ったのにっ!」


 ――たのに……たのに……たのに……

 エコーの効いた、こだまが返ってきた。洞窟効果か!


 自分の声が他人のように聞こえる。どこのバカガキだ。あたしだ。

 逆上のぼせた興奮が一気に引いた。

 やばい。歴史上の偉人に向かって、駄々をこねてしまった。うわあ、恥ずかしい。

 涙が止まったら、今度はヒャックリが出ちゃった! 限界まで息止める。

 ――ヒャック。

 だめだ、止まらない。――ヒャック。


 コホとしわぶく声がした。


「童女や、大事だいじないか」


  (娘や、大丈夫ですか)


「ヒャック。あの、ごめんなさい。ヒャック」


「構わぬ。否、うれしきかな」


  (もうよい。いえ、ありがとう)


「え、ヒャック。うれしい? ヒャック」


「よくぞ助けたまいぬ、すえよ。されど願わくは」


  (よくぞ助けてくれましたね、我が娘や。でも、どうか)


 鏡の中の声が震えていた。


「願わくは、ふたたび、かかるふるまいぞ、なし給いそ」


  (どうか、二度とこのようなことをしないでおくれ)


 ヒミコさまが泣いている!

 どうしよう! ――ヒャックリ止まった。


「ごめんなさい。ごめんなさい。あたしもう泣かないから。ヒミコさま、泣かないで!」


「あはれ、かなしきことよ」


  (なんと可愛い子でしょう)


「ヒミコさま――」


「わごぜ。鏡のおもてを見給え」


  (娘や、この鏡をご覧なさい)


「ミタマエ? 鏡を見るんですか? 見てもいいんですか? 呪いの鏡なのに?」


「案じ給うな。見せたき物語なむありける」


  (心配は要りません。あなたに見て貰いたい物語があるのです)


「――見せたき物語?」

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