五章 鏡の間 <Ⅱ>兄の不安

 今年初めての赤トンボだ。


 繊細かつ可憐でありながら完成されたフォルムが、人に見えない空路を進む。

 なめらかな軌跡を目で追いかけて、深雪は上体を捻った。


 ――いま、白いジャンスカが、秘密の通路に這い込まなかったか?


 目を凝らすと、妹の数メートル先を、木の間隠れに白っぽい毛玉が移動していく。


 ――また猫か。(ため息)


 妹は呆れかえるほど猫が好きだ。チビの頃は、欲望のおもむくままに家に連れ帰ってきたものだが、うちのマンションは動物は飼えない決まりなのだ。せっかく仲良くなっても一緒には暮らせない。親がよくよく云って聞かせたら、自分が猫について行くようになってしまった。我が妹ながら不憫ふびんだ。


 ――そうだ。ここで内緒で飼えないかな?


 雨がかからない場所に寝床をこしらえて、俺と時雨のこづかいで餌を買おう。ヒデランとヨッシャーだけにこっそり教えて協力させよう。名前はなんて付けようかな。

 深雪はわくわくしながらお化け屋敷に戻って、垣根の穴――じゃなくて秘密の通路を潜った。


「時雨! 俺にもだっこさせろ!」


 古い夏蜜柑が地面に落ちている。猫も妹も見当たらなかった。


 ――おかしいな。たったいま入ったばかりなのに。


「おーい、時雨! どこだ! 隠れてないで出てきなさい!」


 深雪はやぶの茂りあう小径を進んだ。月桂樹の張り出した枝を避けて、見晴らしの良いネコジャラシのサバンナを駆け抜ける。


「時雨! 時雨! おーい!」


 冷たい風が吹きつける。ヒマラヤ杉の柔らかな枝が波打った。

 嵐の先触れのような低い雲が日を陰らせる。

 深雪はぞくりと鳥肌を立てて、お化け屋敷を見上げた。


 玄関の上の飾り窓に、橙色だいだいいろあかりがともっていた。

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