四章 一生に一度ひとつだけ <Ⅲ>廃屋の二階

時雨しぐれ。こっちに来ておくれ」


 その声が唱えるあたしの名は、まるで呪文のよう。

 お母さんや友だちが呼ぶ「時雨」とは、まるで異質。

 片腕に猫を抱いたまま、ランタンを手に取ると、少年はこちらに背を向けて歩き出す。衣擦きぬずれの音は、小鳥の雛の鳴声に似ていた。


 この部屋は天井が妙に高かった。

 見上げると、二階の手摺りが暗がりに浮かんでいる。

 ――そうか、吹き抜けになってるんだ。


 奥まった壁に沿って階段があって、その手前には煉瓦れんがの暖炉。マントルピースの上のロウソクには火がともっている。

 足元を見ると、寄せ木細工みたいな木目の床の真ん中に、艶のある黒い円形の石がめてあった。


 その人について階段を上がる。手摺てすりに積もったほこりに指の跡をつけながら、ひとつ、二つ、みっつ。四段上がると一つ目の踊り場。

 そこに置かれたサイドボードの中には、ブルネットのビスクドールや銀色の花瓶が並んでいた。この家に住んでいた人達は、こんな宝物を置いてどこへ行ってしまったんだろう。


 踊り場の壁には、緋色ひいろ天鵞絨びろうどの布地に、華やかなクリスマスツリーが刺繍された、大きなタペストリーが掛かっている。

 色とりどりのロウソク。金糸銀糸の天使たちが、小鳥のような羽を広げて、救い主の誕生を祝福している。もみの枝に積もったビーズの雪が、ロウソクの灯りをキラキラとはじいた。


 ――明るいところで見たいなあ。天辺にはベツレヘムの星があるのかな。

 背伸びしていたら、子猫が鋭く鳴いた。


「どうした、リン?」


 その人の肩越しに、猫がこちらをじっと見ている。

 あたしは周章あわててタペストリーから離れた。少年はちらと目をくれると、階段を上がっていった。

 ――あたしはなんで後ろめたいの。



 二階はもっと暗かった。

 廊下の手摺りから見下ろすと、床に嵌め込まれた黒い石に映るロウソクの火が、遠い街の灯りのようだった。


 少年がカンテラを高くかざすと、コの字の形をした廊下が、洞窟のように浮かびあがった。

 吹き抜けを挟んで、鏡に映したみたいにそっくりなドアが二つ向き合っている。

 両開きのドアには円い飾り窓が嵌まっていた。


 左手のドアの前に少年がいて、薄い微笑みをたたえて、あたしを見た。

 そして、いきなり真っ暗になった。


「うっわあああああ!」


 絶叫してしまった。


「どうしたの? 灯り、なんで消えたの?」


 少年は何も言わない。どうして? 泣きそうなんだけど!


「恐いよお! 早く明かりつけてよお!」


 ――明るくなった。ああ良かった。

 でも、なんだかさっきより薄暗い。ランタンの在処ありかが見つけられない。

 その代わりに――。なんだこれ?


 ドアの飾り窓が輝いている。


 その飾り窓は、左右のドアに嵌め込まれた半月形のガラスが、ドアを閉めると一つに合わさり、丸い満月になるデザインだった。

 ステンドグラスの満月には、緑の蔓草と赤い花の模様が浮かびあがる。

 飾り窓の傍らで、陰に切り抜かれた横顔が微笑んだ。


「中に誰かいるの?」


 問いかける声が震えてしまう。


「いや」


「――だって、今、灯りがついたよ」


「はじめからついていたのさ」


「そうなの?」


かすかな光だから。ランタンを消さなければ分からないほどの」


 気づくと、少年の足元に置かれたランタンは消されていた。


「それで、ランタンを消したの?」


 少年が微笑む。

 ――この人は何者なんだろう?


「僕のことが知りたい?」


 黒い瞳が見つめてくる。どきん、どきんと鼓動の音が高くなる。


「――なんで」


「いま、時雨の考えてることがわかった」


 ふふと笑う。

 朝見た夢を語るように少年が語り出す。

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