四章 一生に一度ひとつだけ <Ⅱ>オバケ

 真っ暗だ。

 扉の隙間から一筋ひとすじ入る日差しの外は、何にも見えない。


 晴れた日に、かくれんぼしてると、よくこうなる。

 ――そんなときは。と、おばあちゃんが教えてくれた裏技があるんだ。

 まぶたにてのひらをあてて、みっつ数えてから、ゆっくり目を開けるんだよ。

 おっけー。おばあちゃん。いち にい さん。


 目を開けたら、目の前に、白いオバケが立っていた。

 青白い長い手を、あたしに向かって差し延べてくる。


 ――しまった。ここって、お化け屋敷だった!


「わあああああああ! オバケだああああ!」


 あたしは、叫んで叫んで叫びながらあと退ずさった。

 あせる背中に重い感触。今まで差し込んでいた光が、すべて消えた。

 完全に暗闇。そして密室。必死に手探りするけど、どこにもノブがない!

 どんなに押しても、扉が開かない!


「いやあああああああ! お兄ちゃんっ! 助けてっ! 深雪みゆきっ! お母さんっ! お父さんっ! 神様っ! 青深はるみちゃんっ!」


 こぶしで扉を叩きまくって、死にそうになるまでえた。

 でも、誰も助けに来てくれない。――もうダメだ!


 そのとき。

 ぽかりと辺りが明るくなって、自分の黒い影が、目の前の扉に落ちた。


「その扉は、内側に引かないと開かないよ」


「え?」


 振り返ると、ブロンズのランタンを提げて、ひょろりと細い男の人が立っていた。


 オレンジ色の灯火に、その人の輪郭がぼんやり浮かぶ。白い着物に黒いはかまをはいて、長い髪を肩先で切り揃えている。昔の写真の人みたいだ。どうしてさっきは手が長く見えたのかな。


 細面ほそおもての白い顔。広い額につながる鼻梁びりょうの高い鼻。憂いを帯びた眉。黒曜石こくようせきめ込んだような切れ長の瞳が、深い睫毛まつげの下からあたしを見つめている。


 はじめは大人の人だと思ったけれど、よく見ると深雪より少し年上の、中学生くらいの男の子だった。形の良い唇がほころんで、ふふと笑った。


「さっき、男の子と二人で入ってきたよね? この家に何か用?」


「あああ、ちがいます! ここにお化けが出たって聞いて……。わあっ、すみませんでしたっ! ごめんなさいっ!」


 お莫迦バカなことをした! 自分がされて嫌なことを人様ひとさまにすると、こんなにも恥ずかしいのか。お母さんの言ったとおりだ。二度とするもんか。

 かかとでターンして、あたしは美少年に背中を向ける。ポケットのハンカチで鼻水と涙と汗とよだれでどろどろの顔を必死にぬぐった。


 玄関扉の両脇には重たげなカーテンが掛かっている。ぬうんの窓はどっちだろう。カーテンの陰に隠れてそっと背後をうかがうと、少年は長い睫毛を伏せて笑っている。


「いいよ、別に謝らなくても。僕の家じゃないから」


 いつの間にか、あの白い子猫が少年に体をすり寄せている。


「この子は、リンというんだよ」


 かすかにしゃがれた声。大人になりかけの変声期の声だ。

 少年はランタンを床に置いて子猫を抱きあげた。子猫は小さな前足でその肩に登ろうとする。少年の細い指先が布地に引っかかった爪をそっと外した。夏草のような黒髪が額にかかる。何もかも綺麗過ぎて現実じゃないみたいだった。


「きみの名前は?」


桐原きりはら時雨しぐれです」


 少年の瞳が、朱くきらめいたのは気のせいだろうか。


「きりはら しぐれ」


 ひとつひとつの音を確かめるように発音する。


「はい」


「そうか――」


 少年はわずかに目蓋を伏せたが、すぐ眼差しを上げて微笑んだ。


「欲しい?」


「え?」――何を?


「この子が欲しかったら、あげるよ」


 その人の胸で子猫がクシャミをした。


「本当に? ほんとにくれるんですか? やった! 嬉しい!」


 子猫を抱き取ろうと手を伸ばすと、少年はわずかに身を引いた。


「その前にひとつだけ頼みたいことがあるんだけど――。いいかな、時雨?」


「はい、あたし、なんでもします!」


 なんて、なんで言ってしまったのだろう。あのとき。

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