三章 お化け屋敷 <Ⅳ>兄の勇気

 温かいてのひらが、ぎゅっと握り返した。


 兄貴は横目でこくりと頷くと、その汗ばんだ掌をそっと離した。

 そして深雪みゆきは大きくひとつ息を吐くと、こぶしを固めて鎧戸よろいどの開いた窓に近づいていった。


「やだ、どうするの?」


 変な声が出ちゃった。


「確かめてくる」


 ラガーシャツの背中に、蔦の枯れ葉が降った。


「ダメだよ! それ、ぬうんの窓だよ!」


 深雪は振りかえらなかった。


「ここで帰ったら、俺は一生後悔するんだ」


 なんで、かっこいいの?

 やめて、兄貴。その勇気は何の為?


 いろいろ言いたいのに言葉にならない。


「おにいー」


「うるさい。大きな声を出すな。近所の皆さんに御迷惑だ」


 深雪は窓枠を見上げた。伸ばした手がやっと届く高さだった。

 窓枠の傍らには、ハナミズキが宝石のような実をつけている。

 深雪はそのゴツゴツとした幹に手を置くと根元に足を掛けた。片手で枝をつかんで身軽く体を引き上げる。ハナミズキの幹が揺れて紅い葉がはらはらと散った。


 ――やめろー。やめてー。


 あたしは膝下がすくんで動けない。

 中を覗きこんだ深雪が動きをとめた。小首を傾げてじっとしている。

 どうしたんだろう。見ているだけで怖い。


 ――あ、動いた。

 深雪は、ゆっくりと顔だけ捻って、変な目付きであたしを見た。そしたら、よせばいいのに、片手を窓枠にあずけて、汚いガラスに顔をぐいと近寄せる。

 次の瞬間、ひっと息を吸い込み、のけぞって動かなくなった。


 あたしは叫び出しそうになった。


「……ちょっと。なんか見えたの?」


 返事がない。


「ねえ? なんかいた?」


 振り向かない。


「お兄? 深雪ってば!」


 恐怖があたしの背筋をザックッザックと駆け登る。


「もう! いやだ! あたし、帰る!」


「――待て」 深雪の背中が言った。


「言ってもいいか?」


「やだ!」


「言わせろ」


「聞きたくない!」


 ハナミズキから飛び下りた深雪は、泣きわめいて逃げる、足の遅い妹を捕まえた。


「はなせえ!」


 暴れる肩を引き寄せて耳元で囁く。


「カーテンが閉めてあって、なんも見えん」


「バッカヤロウ!」



 深雪とあたしは、奇声をあげてネコジャラシの庭をめちゃくちゃに駆けまわった。

 足元がフカフカして気持ちいい。ニーソックスにオナモミが大量に突き刺さった。


「ふざけんなー」


「全然怖くないぞー」


「かかって来いー」


 気がすむまで叫んだ。これだけ広ければ、御近所さんだって聞こえまい。

 それから、入ってきた垣根の穴――じゃなくて秘密の通路を潜って外に出た。


「じゃ、俺は本当に公園行くから」


「ボールとか、無いじゃん」


「いいんだよ。缶蹴りするんだから」


 元気に走っていく可愛い兄貴。オバケがいなかったんで安心したんだろう。実は、あたしより深雪の方が、ずっと怖がりなんだから。さてと。さり気なく家に戻って、ゲームでもしますか。その足元を、ふわりと白い風がすり抜けた。

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