二章 没くした記憶 <Ⅱ>お化け屋敷の噂

 はじめて夜の海を見たとき、怖いと思った。


 怖くてたまらないのに、暗い波間から目が離せなくなった。

 深くふかく遠いとおい海の底からやって来る波の連鎖が、黒く渦巻いて呼吸している。あの黒い糸綛いとかせのような波にからめとられて、あたしは過去に引きずり戻された。




 あれは、小学三年生の二学期だった。

 うちの父は毎晩帰りが遅いから、晩御飯はいつも母とあたしと三つ違いの兄と三人で食べていた。あの日は明るいうちから、カレーを煮込む匂いが家中に漂っていたっけ。


 兄の深雪みゆきには、御飯が炊きあがるタイミングに必ず帰宅するという能力が備わっていた。今日も炊飯器が三回目に鳴ったのと同時に、玄関のチャイムを連打している。


「おにい、うるさいー!」


 手の離せない母の替わりに、あたしがドアロックを開けてやったら、ドアの前では深雪が新作の変顔をキメている。あたしが爆笑すると、兄は「ただいま」と叫んだ。

「お帰り!」 あたしとキッチンの母の声が揃う。


 我が家のカレー用の深皿は白地に紺色の花柄だ。いま、母は炊きたての御飯をよそっている。タマネギとニンジンと豚バラ肉をもったりと煮込んだカレーをたっぷりかけて、その上に揚げたてのコロッケをころんと載せた。


「コロッケが!」 「コロッケだ!」


 あたしと深雪の声が喜びにハモった。


「いただきまーす」


 スプーンでコロッケの端を割ると、サクッといい音がした。兄は絶対ソースをかける派。あたしはこのまま食べるのが好き。ふうっと一息冷まして口に運ぶ。スパイスの効いた挽肉ひきにくと玉ねぎの甘味がじゃがいもに溶けて、辛口のカレーと絶妙に混じり合う。


「すっごい美味しい!」


「ありえない旨さ!」


 得意そうに頬笑む母の赤いエプロンには小麦粉が白く散っている。


「コロッケもうひとつのせる?」


「のせる!」 「あたしも!」


「デザートもあるけど食べ切れる?」


「余裕です!」 「全然いけます!」


 デザートは完熟して溶けかかった柿がなんと一人一個。

 今夜のディナーは最高に贅沢だ。


「見切り品のワゴンで、四個百円だったのよ」


「そこは買うよね」「やったね、お母さん」



 完食したらおなかが苦しい。この苦しいのが幸せ。満ち足りた気分でテレビをつけると、女子の団体が笑顔で踊って歌っていた。爪先から踊り出している妹の背中で、深雪が椅子から身を乗り出して母に話し掛けている。


「お母さん。お化け屋敷って、知ってる?」


「どこの遊園地?」


「違うって。国道に下りていく坂道の途中の、ボロボロの家」


「ああ。松林のね」


「そう。それ!」


 母が片手でテレビを消した。家族に話題があるときはそういう約束なんだ。残念。


「あたしも知ってる! 木がジャングルみたくなってる家!」


時雨しぐれが知るわけねえじゃん」


「知ってるもん! 青深はるみちゃんと見たもん!」


「はいはい。それで?」と母。


 深雪はわざとひとつ間を置いた。小鼻にしわを寄せている。


「――出たんだってよ」


「やめてよ! ウソつき!」


 立ち上がってしまった。あたしはオバケが大嫌いだ。


「ウソじゃねえよ!」深雪がにらんだ。


「見たのが、ヒデランとヨッシャーなんだからな」


 ヒデランとヨッシャーは深雪の親友だ。ちなみに兄はユキリンと呼ばれている。


「昨日あいつら、塾の帰りにあの家の前を通ったんだって。夜の九時過ぎだぜ。そしたら窓が明るいんだってよ。ひとつだけ。誰か引っ越してきたのかなと思ったけど、門の錠がおりたままなんだって。おかしいなって、中を覗いてたら、その窓が、こう、下から上にカタンって開いたんだって。……でぇ、中からぁ、真っ白いお面みたいな顔がぁ、ぬぅうううーんって、出てきたんだって!」


 椅子の上に立ちあがった深雪が、顔を左右にゆらゆら揺らして「ぬぅうううーん」を実演したので、あたしは叫んで走り出し、調子にのった深雪が追いかけた。

 鬼ごっこが佳境に達する前に、母が一声怒鳴った。


 お説教モードに移行。二人並んで坐らされた。


 ああ、さっきまであんなに幸せだったのに。深雪のせいだ。

 あたしが横目でにらんでるのに、知らん振りしてやがる。母はすっくと立ち上がると、キッと斜めに顔を作った。


「確かめもしないで、なんでもオバケにしないの!」


「だって」


 深雪が上目うわめづかいにうなった。


「空き家なのに……」


「空き家だって、大家さんとか不動産屋さんとか、持ち主がいるんです!」


「絶対?」


「絶対よ。ときどき電気つけたり、窓開けて風を通したりしてるのよ」


「夜中に風通すか?」


 深雪が不服そうに言った。


「何時に通そうが、その人の勝手でしょ!」


 兄はいささか鼻白はなじらんだ。


「そしたら門の錠は?」


「頑張って、内側から閉じたんです」


「ええー?」 「ええー?」


 兄とあたしの声が揃う。


「だいたい、オバケは電気つけません!」


「おお!」 「なるほど」


 これは説得力がある。深雪もうなずいている。


「そしたら、ぬぅーんは?」


「見まちがいです!」


「ええっ?」 


 ――言い切られた。


「夜中まで残業した不動産屋さんの顔色が悪かったんで、オバケに見えたんでしょ」


「そうかなあ?」 「どうかなあ?」


「あんたたち」と母がにらんだ。


「見にいこうとか考えてるなら、絶対許しませんからね」


 そのとき、なぜか深雪とあたしの目が合った。


「あたしは行かないよ! 怖いもん」


「俺だって行かないもん! でも中に入らなきゃいいじゃん」


「だめです!」


「なんでだよ!」 「なんでよ!」


「おまえ、行かないんじゃねえのかよ」


「いちおう聞いてるだけだから」


他所よそ様の家はテーマパークじゃありません!」


「入らないで家の前通るだけ……」


「いけません!」


 なぜだと言いかけた深雪が、母の眼光に威圧されて沈黙した。


「あんたたち。人様の家の前で『ここんち、お化け屋敷なんだぜ』って騒ぐ気?」


「だって、空き家だけど」


「明日、引っ越してくるかもしれないでしょ!」


 それはそうかも。だから、そおっと風のように通り過ぎるだけなら。


「自分がそんなことされたらイヤじゃないの? たまたま夜中にお父さんがベランダでストレッチしてたのを、どこかのおっちょこちょいに目撃されて『人外じんがいの魔物を見た!』って言いふらされたら、どうよ?」


「……いやだ」


「……むかつく」


「そうでしょ? なんでも怪奇現象にするテレビ番組みたいなことしないの!」


「恐怖特番とか?」


「見たことある!」


「暗視カメラだけに映るんだよね?」


「霊能力者の人が、ここは寒い! とか言って泣くの」


 盛り上がりかけたら、眉間に力を入れてにらまれた。


「あんな迷惑なものないんだよ? あんたたちの隠し撮りされた顔に、モザイク掛かって、音声替えた甲高い声がテレビで流れたら最後、日本中のヒマな人間が押し寄せて、連休の夜はここで肝試しだよ。そういうの嬉しいわけ? どうなの、深雪!」


「はい、嫌です」


「時雨!」


「嫌です」


「そうでしょ? 自分がされて嫌なことは他の人にもしない! わかった人はハイ!」


「ハーイ」 「ハーイ」


 またチラッと目が合った。

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