二章 没くした記憶

二章 没くした記憶 <Ⅰ>追いかける者

「待って! 怖いんだってば! 一人にしないでよ!」


 予想外に敏捷びんしょうりんを追う。

 こいつ、階段を三段抜かしでななめに跳んでいくんですけど。

 本当に不登校か。家で何してるんだ。筋トレか。


 階上に登ると、玄関ホールから続く吹き抜けを、コの字に囲んだ廊下の端に出た。

 丸いステンドグラスの飾り窓がまった両開きのドアが、吹き抜けを挟んで左右にふたつ向きあっていた。手前のドアが細く隙間を開けている。その中にグレーのスカートのすそがひらりと消えた。


「林てば!」


 夢中で同じ隙間をすり抜けると、背中で音を立ててドアが閉まった。


 ――え? なんで閉じたの?


 背後のドアも気になるが、室内のまぶしさに目を奪われた。

 並んだ細窓の両脇に、まとめられた白いカーテンが、朝日を含んで揺れている。象牙ぞうげ色の小花を散らした壁紙の、明るく広い部屋には新しい木の香がした。

 下半分を押し上げられた窓から、花壇に咲きこぼれる紫苑の花が見下ろせる。


 艶やかなオークの床の中央には、小さな丸テーブルがひとつあった。

 その前で、林が立ち止まってこちらを振り向く。


 肌があわった。

 どうしてこんなところに、子どもがいるの。


 はなだ色の水干すいかんを着た童子どうじが、テーブルの上に、白い爪先をらして坐っていた。

 そでの長いくくの先が、床まで届いている。


「こんな人形に見覚えはありませんか」


 林が言った。


「人形?」


 稚児髷ちごまげの子どものうつむいた顔をそっとのぞく。


 ――ほんとうだ。

 眉も目も鼻も唇も木に彫り込まれた作りもの。人形にんぎょう浄瑠璃じょうるりあやつり人形だ。

 こんなのに見覚えなんかない。あるわけがない。


「――知らないけど」


 林が泣き出しそうに、また顔をゆがめた。


 そのとき、こごえるような風が巻き起こった。

 カーテンはれるばかりにはためくのに、窓の外の紫苑しおんは穏やかに陽光を浴びている。


 押し上げてあった窓が一斉に落ちた。

 断罪されるような音に、あたしは悲鳴をあげて耳をふさぐ。

 鈍くきしむ音がして、次々に鎧戸よろいどが閉じた。


 真っ暗だ。もういやだ。誰か助けて。


 目を閉じてしゃがみこむ。口の中に苦い味がする。

 白い猫。西洋館。閉じた窓。記憶の奈落から迫り上がってくる影法師。

 長い長い指。血の色の炎。――やめて。見たくない。


「思い出すのが、怖いのですか?」


 声が異様に近い。


 固くつむっていたまぶたを開けると、林があたしの瞳を覗き込んでいる。

 灰青はいあおの瞳に、おびえた自分が映る。

 ざわり、ざわり、ざわり、と耳の奥で鼓動が跳ねる。


「――なんで」


「いま、時雨しぐれさんの考えてること、わかりました」


 目を合わせたまま、林はゆっくりとあと退ずさり、操り人形の後ろに回る。


「でもね」


 林と人形のシルエットが重なる。


「ボクたちは、思い出して欲しいんです。どうしても」


 人形がカクンとおもてを上げる。


 つむっていたまぶたが、かっと割れて、目玉があたしを見た。


 誰かの叫んだ悲鳴が聞こえた。あたしの声、かな。




 ――時雨


 と人形が言った。あごがカパリと下がって、真っ赤な口の中が見えた。



 ――僕の名前、思い出したア?


 人形が火をいて燃えあがった。

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