一章 思い出して <Ⅲ>西洋館


 声が出ない。胸の内側で自分の悲鳴が反響している。

 耳障みみざわりな効果音を立てて自転車が倒れる。あたしは石畳の舗道に転がった。


 西洋館の真新しい三和土たたきが、白々しらじらと朝日を浴びている。

 チョコレート色の玄関扉が、内側に薄く隙間を開けていた。


 震える手をついて起き上がり、もつれる足で中に駆け込む。

 背中に力を込めて扉を閉めた。


 ――来ないで! 来ないで! 来ないで!


 扉の内側は、狭くて暗いホールだった。

 窓枠の形に切り取られた朝日が、床に落ちている。

 あたしは背中を扉に押しつけたまま動けない。


 あの暗がりに猫が隠れていたらどうしよう。指の震えが止まらない。

 青深と陽蕗子は、あたしがいないのに気づくだろうか。


 そのとき、かすかな足音が聞こえた。

 心臓がはねあがった。息が出来ない。


 奧まった壁に沿う階段を、誰かが降りてくる。

 ぎこちなく向きを変え、かげの濃い踊り場で立ち止まった人影を、階上から差し込む光がピンスポットのようにとらえた。


 あたしと同じ、グレーのスカートに白いブラウス。

 背中までとどく黒い髪。幼い頬。

 厚めの前髪の下で、大きな灰青はいあおの瞳が戸惑っている。


 奇跡だ! あたしは嬉しくてこぶしを握りしめた。


 入学式であたしの前の席に坐って、ずっと下を向いていた子だ。

 名前は、たしか白銀しろがね りん


 あの日以来、一度も学校に来ていないから、実は顔もはっきり憶えていないんだけど、人形のようなつややかな黒髪に見覚えがあった。


 林は、その場から動かずに固い声で言った。


「どうしたんですか? 怪我けがしてますよ」


「助けて!」


 あたしは床を蹴って、暗いホールを突っ切った。

 階段を駆けあがり、踊り場で立ちつくしている林に抱きつく。

 子どものように小柄な林は、頼りなく崩れて、勢いあまって押し倒してしまった。


「きゅううう!」


 どんな悲鳴だ。恐怖体験マックスのあたしは一瞬、なごんだ。

 あおむけにパタパタもがく仕草も、見開いた瞳も子猫みたいだ。


「なんですか? 変態ですか? 離して! 触らないで!」


 まさかの塩対応。可愛いくせに。


「ヘンタイってなんだよ! 同級生なんだから、ハグなんか当たり前でしょ!」


 当たり前は違うだろう。内心自分につっこむ。


「ハグってなんですか。同級生なんて知りません」


「知らないかもしれないけど。だって君はりんちゃんでしょ?」


 林は、はっとてのひらで口を押さえると、獣のようにのしかかるあたしの目をまじまじと見つめた。


「いま、リンって言いましたね。どうして分かったんですか?」


「だって。入学式で席近かったし」


「入学式?」


「だから――。あたしは同じ七組の桐原きりはら時雨しぐれ。覚えてないだろうけど」


「覚えてます。桐原時雨さん。でも友達じゃありません」


 ――それ、口に出すか。思わず林のえりをつかむ。


「いきなり悲しいこと言い出すんじゃねーよ! あたしは殺されかかってんのよ!」


「コロサレ? えええっ?」


「ネコが来るんだから!」


「ネコが?」


「殺されるの! 助けて!」


「ネコに?」


「不審感をむき出しにするなあ!」


 こういう弁の立つ輩には恫喝どうかつあるのみだ。

 勝ったと思ったら、こっちを見上げる大きな瞳が潤んだ。


「……」


 うわあ。泣いたよ、こいつ。

 林はあたしを突き飛ばして、階段を駆け上がった。

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