結びの書状

 「今回の旅も楽しめたわい。礼を言うぞ」

 そうしみじみと彼女は、決して新築とは言えないマンションに向かって一礼した。

 青年と少年の境界線上に居るような今回の旅を共にした者を一人、望みどおりに彼の母親の元へと送り届けた後で。

 心地良さそうな彼の寝顔から、きっと良い夢を見ているのだろうと彼女は推測する。

 その気になれば夢の内容を知ることも彼女には可能だが、それはあまりにも破廉恥に無粋だと、不逞行為を厳に慎む彼女。

 彼が語ったように、品位を保たなくてはならないのだから。

 踵を返し、建物に背を向ける彼女。

 夜の名古屋の街を彼女は歩く。

 見た目も着物も艶やかな、彼女の姿が見える者はほとんどいない。

 親に連れられた、年端もいかない子どもがたまに目を向けてくる程度だ。

 たまに今回のような旅の道連れが出来るものの、基本は一人旅の道中に彼女はある。

 しかし、そのことを寂しいと思う彼女ではない。

 悠久の旅路がその事を当たり前にさせた部分もあるが、十年。百年単位で変わり続ける街並みや自然景観の移り変わりを見続けるのは飽きない。

 それ以上に、彼女にとって大切なのが固有の文化を含めた人間と繋がることそのものが、楽しみなのである。

 だからこそ、彼女はこれまでいつ果てるともない旅を続けられて来た。

 その足どりは、これからも変わることはない。

 人知れず一人で。

 あるいは何人かの旅人と一緒に、いつ終わるのか分かったものではない旅を続ける。

 舌がとろけるような、その土地の美味しいものをこれからも変わらず食べに行くことだろう。

 今回の旅では、一緒に入ることはなかったけど、温泉も。

 「一緒に温泉に入っても良かったけど、きっと品位がどうのこうの言うて断るのじゃろうて。うぶなやつじゃったからな」

 重い面も三つほどあった。

 恥ずかしい思いもしたが、総じて楽しかった彼との旅の思い出を彼女は振り返る。

 彼が言ったように、いずれ彼と彼女には別れの時がやって来る。

 早いか、遅いかの違いでしかない。

 だからこそ、この記憶はいつまでも留め置かねばならない。

 彼女が覚えている限り、この世から彼が完全に居なくなることはないのだから。

 これまで旅を共にしてきた者と同じように。

 彼の全てを覚え続けようと彼女は誓う。

 どれくらい街を歩いただろうか?

 どのように街を歩いただろうか?

 彼女の前に桜の並木が現れた。

 今回の旅で彼が彼女の名前とした、日本の春を象徴する樹木。

 とっくに葉桜となっているその内の一本の幹に彼女は手を添えて、言った。

 「さて、次はどんな人生に咲き会えるのかのう?楽しみじゃ」

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花に風 世乃中ヒロ @bamboo0216

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