三日目 さくらの神域(その四)

 「どうじゃ。一心地つけたか?」

 「おかげさまでね。少しは落ち着けたよ」

 山を下り、鞍馬の人里に戻って来た僕らが最初に向かったのは温泉だった。

 汗やその他諸々のものにまみれた体を洗い流して、くたびれていた心をリフレッシュさせる目的で。

 さくらが発案したもくろみは、大いに達成された。

 「さくらが教えてくれたとおり、頭を使わずに温泉に浸かってみたよ。そしたら、これまでのことがどうでもよくなったなんて言い方は変だけど、体の疲れが緩和されたのはもちろん、それよりも心が大分軽くなったよ」

 鞍馬の町中まで送ろうか?というさくらの申し出を断っておいてこう言うのも何だが、帰り道は本当に辛かった。

 一歩一歩を踏み出すその度に体のみならず、心が軋んだ。

 その場に居ることを知らなかったとはいえ、家族の前で彼を殴りつけた罪悪感。

 父である天狗との別離。

 完全に吹っ切れたとはとても言えないが、それでも心が救われたのは確かだった。

 温泉の効能もあるのだろうけど、適温のお湯が体だけに限らず、こうまで心を癒すのだということを、僕は初めて知った。

 僕の心身の機能は、三分の二くらいは復旧を遂げたのである。

 火山の恵みである温泉と、さくらの知恵を借りて。

 外に出ると、この旅に出てから三度目の夕暮れを迎えていた。

 前の二度は名古屋と大阪の、大都会の中での光景だったが、今回は唸る大自然の中で見る夕焼けの空。

 夕暮れの空と、シルエットと化した山のコントラストは、美しいの一言に尽きるのだが、いまの僕にはそれ以上に見てみたい景色があった。

 それに・・・

 「さて、夜は何を食おうかのう。山登りで腹が減ったろうから、腹が一杯になるまで食べられる物がいいじゃろうな。京都名物でそれと言ったら・・・」

 「いや」

 僕の思考を遮ったさくらの言葉を遮った。

 「今夜は、さくらの手料理を食べたいな。さくらが作った物を食べてみたいし、夕暮れのさくらの神域も見てみたいから」

 「・・・よかろう。今夜はわらわが手ずから馳走してやろうぞ。その代わり、景色を堪能した後で構わぬから、支度を手伝うのじゃぞ」

 「うん。もちろんだよ」

 「最初から完成品を用意することも可能じゃが、それでは味気が無さすぎるのでな」

 直後、視界が桃の一色に覆われたと思ったら、次の瞬間には橙の色に染まる。

 「手伝いは、存分に見てからでよいからの」

 そう言い残してから、さくらは庵へと階段を降りていった。

 さくらからしてみれば、字を書くくらいに簡単なことなのだろうけど、わざわざ高台に送ってくれた心遣いが嬉しかった。

 温泉に浸かってそれなりに回復はしたが、それでも疲労は残留しているのだからなおさらだった。

 橙に染まる空。

 橙に染まる峰。

 橙に染まる湖。

 そして、橙に染まる桜の森。

 圧倒的なまでの橙。

 ほぼ一色で構成されている単調な色彩の景色に過ぎないはずなのに、何処までも奥深く、何処までも鮮やか。

 この、僕の心をがっちり掴んで離さない景色の素晴らしさと美しさを、僕はどのような言葉で表現すればいいのだろう。

 ふと、感謝の二文字が脳裏に浮かんだ。

 母さんと、晴信さんが愛し合ったからこそ見ることが出来て・・・

 真実紗さんが真っ直ぐに育ててくれたからこそ素直に感動し・・・

 さくらが創り出し、この旅に僕を誘ってくれたからこそ、こうして極限の美しさを伴って僕の目に映る。

 三つの内、一つでも欠けていたらいまの恍惚は無かった。

 感謝。

 この単語を真の意味で理解出来たのが、僕がこの旅の中で得られた最大のものの一つなのかもしれない。

 涙が自然と頬を伝う。

 今日、二度目の涙は出どころが明らかだった。

 「・・・涙に滲んでいたら、せっかくの景色が台無しじゃないか」

 僕は涙を拭うと、刻々とその色を変えていく夕暮れの景色を目に焼きつけてから、約束を果たすべく、さくらの元へと石段を下りたのだった。


 さくらが作ってくれた晩ご飯は、その一つ一つに手が込められていて、本当に美味しかった。

 料理を作るさくらの姿はしっくりこないと言ったけど、前言撤回。

 料理を作るさくらの姿もしっくり来ていた。

 僕もちょっとした料理を作るから分かる。

 手際がものすごく良かったのだ。

 無駄な動きが一つもなく、神がかってさえいた。

 僕が手を出したのは、全体の四分の一もあるかどうかくらいで、ほとんどはさくらの仕事だったのだ。

 そのお礼の意味も込めて、皿洗いなどの後片付けは僕一人でやると申し出た。

 片付けをやり終えた後は、雑談そのものの内容の会話をやりとりしながら、火がついていない囲炉裏の脇で時間を過ごし、やがて床に就いた。

 山登りの疲れからとしか思えないが、まぶたがいつもより重たい。鉛で出来ているようにさえ思える。

 それから体感で一時間ほどが経過しただろうか?

 一つの懸念から、いつもより強力な魔王クラスの睡魔と戦い続けながら起きていた僕は、枕元に感じた気配に目を開けた。

 「やっぱり・・・」

 そこには、どこか沈痛な面持ちのさくらが立っていて、真っ暗な建物内でもさくらの白い顔は、その輪郭と表情をはっきりと見せつけていた。

 「起きておったのか」

 「・・・酷いよ。さくら」

 当たって欲しくないと思いながらも、僕はその事への対応を怠らなかった。

 さくらとの別れという可能性への対応を。

 これが最後の晩餐になるかもしれないと思ったからこそ、僕はさくらの手料理を食べたいと考えたのだ。

 「さよならも言わせてもらえないまま別れるなんて、僕は嫌だよ」

 掛け布団をまくり上げ、僕は上体を起こし、さくらの目を見る。

 「いつ、気がついたのじゃ?」

 淡々とさくらは僕に問いかける。

 「最初に気がついたのは、高山で小判の元の持ち主の人の話を聞いてから、ステーキハウスに向かっていた時だよ。さくらと一緒に旅をしていた人から受け取ったということは、その人との旅が終わった時に別れたって可能性は十分に考えられるから」

 さくらは僕の言葉を黙って聞いている。

 「それに、僕ら人間とは比べ物にならない、永遠とも言えるような時間をさくらは生きてきて、これからもそうなんだろう?遅かれ早かれ、いつかは別れる時が来るのだから、嫌でもそのことは考えていたよ」

 「なるほどのう・・・」

 努めて感情を抑え込んでいるのだろう。

 さくらの表情と言葉に、いつもの明るさは見当たらず、完全に息を潜めてしまっている。

 色白の肌から、まるでマネキン人形と話しているかのように錯覚するほどだった。

 「確証は無かったけど、漠然と何かあるかなって。出来れば外れて欲しいと思っていたけど、その顔を見た限りでは当たりだったみたいだね。僕の旅の目的も果たされたことだし」

 僕は心の内を、出来るだけ顔に出さないように頑張っていた。

 出来ているかどうかはともかく。

 「ああ、そうじゃな。風太とわらわの旅はここまでよ。だからこそわらわは、この旅の中での、わらわに関する記憶だけをお主の頭の中から消さねばならんのじゃ」

 「!・・・どうしてか、その理由を聞かせてもらってもいいかな?」

 さくらとの別離という可能性は考慮していたが、更に、さくらと関わった全ての記憶を僕の脳内から抹消する。

 予想をはるかに上回る事態が発生したというのに、僕はその事に対して全くと言っていいほどに恐怖心を感じてはいなかった。

 さくらへの信頼が、揺るぎなく心の根底にあるからだ。

 でも、共に過ごした時間が三日間と短いながらも、さくらと重ねてきた思い出が全て消え去ってしまうというのは、たちどころに悲しい気持ちになった。

 寂しさが重く、僕の心にのしかかって来る。

 理由を聞かずには居られなかった。

 「神は、一人の人間のものであってはならんのが理由じゃ。風太はわらわに絶大な信を寄せておるようじゃし、わらわもまたしかり。いまの風太とわらわは、神と人との間柄を逸脱しておると言えよう」

 さくらは、表情と口調を崩すことなく続ける。

 「神とはあまねく全ての人間のものでなくてはいかん。その関係を維持するにあたって、風太とわらわは近づきすぎたのじゃ。その一線だけは、何があっても踏み越えたままにしてはならん。例え、わらわの目的がその分だけ遠のいてしまったとしても」

 さくらの目的。

 神様が存在することを広めること。

 愛した神様を呼び戻すこと。

 さくらが使命にも掲げるほどのそれを差し置くのだから、人が人を殺してはならないのと同様、神にとってその規則は絶対に破ってはならない、厳格なものに違いない。

 神様ではない僕が、異論を唱えるべきではない。

 「・・・勝手に接近してきておいて、勝手に別れを強要するわらわを、風太が身勝手と非難するならそれも構わぬ」

 「・・・非難なんて、しないよ」

 僕は静かに言った。

 そこに嘘や過剰な気遣いはない。

 ただ、その意志を尊重するしかない。

 それに、

 「さくらは、この旅の中で僕にたくさんのものを与えてくれたし、出会わせてくれた。感謝こそすれ、非難なんて・・・」

 さくらへの恩を仇で返す。

 そんなことをやらかそうものなら、それこそ母さんに顔向けが出来なくなる。

 いまや、母さんにとっても、さくらは恩義ある相手なのだから。

 嘆き悲しみ、怒り狂う気など更々ない。

 「それに、さくらの言うことも何となく分かるからね。真実紗さんと似ているんだ。生き方というか、考え方が」

 児童擁護施設の代表という立場から、僕が見た限りでは、僕と他の子どもたちへの真実紗さんの接し方と育て方には、さほど違いがないように感じられる。

 真実紗さんは、見守るべき存在に対して常に公平であり続けた。

 特定の誰かにだけ優しいということをよしとしない人なのだ。

 もし見えるのであれば、二人の生きざまを支える土台は、きっと同じ形をしているに違いない。

 「安心するがよい。わらわがするのは、わらわに関する記憶を消すだけ。それ以外に風太がこの旅路で得たものは何一つ消えぬし、無かったことにはならぬ。少しは設定をいじらせてはもらうがの」

 「具体的に言うと?」

 「お主はこの三日間、わらわとではなく和解した美歩と旅をしたことに置き換えられるのが、最もたるものじゃろうな。要は、わらわの代わりになるのが美歩ということになる。父に会いに行けたのは美歩が案内したからだとな」

 僕は目を閉じて考えた。

 眠気はとっくに吹き飛んでいる。

 それくらいなら・・・まぁ、いいや。

 その流れでいくのなら、僕が真実紗さんに会いに行った時のつじつま合わせがどうなるのか?という杞憂はあったけど、さくらを信じるしかない。

 その代わり。

 「その代わり、二つだけ。まずは僕の中から完全にさくらの記憶を消して欲しい。少しでも思い出すと絶対に辛くなるだろうから、天狗の力と同じくらい徹底的に」

 「もちろんじゃ」

 「記憶を操作されるなんて正直おっかないけど・・・でも、さくらがそれをするのなら構わないかな。安心して居られるよ」

 僕は冷静だった。

 一番辛いのは、また一人ぼっちになってしまうさくらだ。

 さくらを差し置いて不幸ぶる訳にはいかない。

 「もう一つは、名古屋の母さんの部屋に送って欲しいんだ。きっと僕のことを心配しているだろうから、少しでも早く安心させてやりたい」

 「任せよ。それと、きっとお主のことじゃから、わらわのことを不憫に思うておるのじゃろうが、栓無いことじゃ。お主の母が言ったように、自分で選んだことの結果の責任は何であれ、自分の手で取るべきなのじゃからの」

 さくらは最後までさくらだった。

 確かに、僕の心配は余計なのだろう。

 これからも彼女は己が王道を行くに違いない。

 残っていた懸念も取り払われた。

 「そっか。何にせよさくらに会えて良かった・・・いいよ。いつでも」

 これから手術に向かう患者の気持ちってこんな感じなのかな?

 生死の境という訳ではないけれど、いよいよ行きつくところまで来てしまったという感覚を覚える。

 「なに、いまのそなたにはよりを取り戻した母がおる。いままでどおりの施設の皆がおる。寂しく思う必要などない・・・別れが辛くなるだろうと、風太が寝ておる間に全てを済ますつもりじゃったが、許せ。風太の気持ちをないがしろにしておったわ」

 「怒ってなんかないよ。それは、さくらが僕を想ってしようとしたことだからね」

 「・・・横になれ。目覚めたら、風太は美歩の隣で寝ておる。佐保姫の名において約束しようぞ」

 さくらの言うとおり、僕は寝ていた敷き布団の上で仰向けに寝そべり、一片の不安も抱くことなく目をつむる。

 荘川桜から京都まで。

 もう消えて無くなる、さくらとの三日間の旅の記憶が鮮明に蘇る。

 だからこそ、体に引き続いての心の最後の晩餐として、僕はそれらを心ゆくまで味わい尽くした。

 涙は出なかった。

 そして僕は、万感の想いを込めて、言った。

 「さようなら、さくら。ありがとう」

 「・・・さらばじゃ」

 まぶたの奥がピンク色に染まる。

 その刹那、僕の意識は深い眠りの底に落ちていく。

 花と風の旅が終わりを告げた瞬間だった。

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