三日目 京都(その三)
細部の内容こそ違えど、天狗の伝承は日本全国にあることだろう。
ここ鞍馬も、その内の一つが残る地である。
平家の全盛期、幼い頃の源義経がこの地で天狗から剣の手ほどきを受けたという言い伝えは、天狗伝説の中でも一、二を争うほどに有名だと思う。
こうして神様が目の前に居るのだから、天狗が実在していたとしても何ら不思議ではない。
その事を、大きな摩擦抵抗もなく、ほぼすんなりと受け入れられるくらいには、僕の思考は柔軟なつもりだ。
いや、冷静とはとても言えない、冷めた目で達観していると言った方が的確だろう。
僕には生来、風に由来する力が二つ備わっていたのだから。
天狗が使役するという力が。
風を吹かせる力はもちろんのこと、嘘を聞き破る能力にしても、声は大気中を風に乗って届くものでもあるので、風と繋がりが全く無いとは言えない。
こんな僕だから、超常の現象には慣れている。
僕の父の正体を知っていたからこそ、一昨日の夜、母さんは神様の存在をいとも容易く受け入れた。
それと同じ事だ。
さくらとの出会いが、その事をより一層、顕著にさせていた。
荘川桜でさくらと出会っていなかったとしたら、このようなイレギュラーも甚だしい旅に出ているはずがない。
けど、その一方で、さくらと出会ったからこそ僕は目の前の父である男の正体が天狗であることにほとんと驚くことなく彼と、鞍馬か隣の大原のどちらかも分からない山の中で相対していたのだった。
山の中のちょっとした広場で、三メートルほどの距離を空けた状態で。晴信さんと名前で呼ぶのも違和感だらけなので、僕が彼と呼称する彼と。
「・・・」
「・・・」
相対とは言ったものの、彼が木の上から登場してから、かれこれ五分以上、僕と彼は言葉を交わすことなく過ぎている。
僕はもちろんのことだけど、彼にもこの十八年間の中で、吐き出すことも出来ずに溜め込むしかなかったものが、渦を巻いているのだろうか?
さくらはというと、僕と母さんの人間同士(あえてそう呼ばせてもらう)だった名古屋の時とは違い、僕の目の前の相手が相手だけに、僕のすぐ背後で目を離すことなく控えてくれている。
彼が純血の天狗であるのは、さくらの言がなかったとしても確かだ。
根拠と呼べるものは、封印されてもなお僕の中に有り続けている半身が告げる直感のみだけど、それだけに、逆に疑う材料がない。
もし、彼が本気で立ち向かって来ようものなら、例え封印されていなかったとしても、ハーフでしかない僕の力で太刀打ち出来ない事は、試すまでもなく明らかだ。
真剣と木刀くらいの差はゆうにあるはずだ。
その差をさくらは帳消し以上にしてくれている。
それでも最初に、僕が彼の息子であることを、半分が人間ではないことのショックから立ち直れていなかった僕に変わって説明して以降は、不干渉の立ち位置をいままでずっと貫いている。
場を取り持つことを一切していない。
「・・・元気に、していたのか?」
沈黙が支配する空気を吹き飛ばしたのは、彼からだった。
こちらの目を見ることなく。というより、見ることが出来ないのだろう。足元の雑草に視線を注ぎながら彼は言う。
「それなりにね・・・」
そう言っていいのか曖昧な位置に居るけれど、僕の父親として、それは一番に聞いておくべきことなのだろうか。
その心情を分かってはいたけど、それでも僕はおざなりにしか答えられなかった。
自分の半分が妖怪の血肉で成り立っている。
そのような、人間として大いに嘆くしかない、精神的なダメージから未だに心が回復していないのもあったし、いまのところ彼に対して好意と呼べるものを何一つ持てていないのも、もちろんある。
僕は改めて周囲を見渡す。
人よりも木の方が圧倒的に多い、人で溢れかえる都会とは真逆の世界。
これほどまでの山奥に住んでいることから、彼が人間と一切の関わりを断って生きているのは、疑うまでもない。
となれば、この手の物語によくあるように、人目に触れないよう細心の注意を払いながら、息を潜めて暮らしている存在がどうして、僕の母さんとただごとならぬ交わりを持つまでに至ったのか?
その理由を、バックグラウンドを最初に明確にしておかなければならないだろう。
物事には順序があるのだ。
名古屋に戻ってから母さんに聞くという選択肢が思い浮かぶも、瞬時の内に僕は、その選択肢を頭の中から、かなぐり捨てる。
何にせよ、彼に最初に問うべき事は、それ以外に考えられない。
そう思った僕は、軋む唇と舌を動かそうとするも、
「・・・私が美歩と出会ったのは、京都の街中でのことだった」
先の先を取って彼は、淡々と語り出した。
僕がここに来た理由を一言も言っていないというのに、その理由を知っていなければ、絶対に出てはこない内容の言葉だった。
そこはやはり天狗。
自由自在に風を操ることで、人を凌駕する妖怪。
神様であるさくらには及ばないまでも、風を偵察に使役することで、とっくに僕らの来訪と、その目的には気がついていたのだろうと思われる。
会話の出だしはともかく、いまは十全に心の準備が整っているとおぼしき顔つきを彼はしている。
「当時、美歩は京都の大学の二回生だった。工学部だったはずだ」
ということは、母さんは少なくともその時の二年分の学費と、医学部の学費全額を自分で負担した可能性は非常に高い。
工学部に二年と医学部に六年の、八年分の大学教育に支払った金額たるや、食費や家賃などの生活費を含めれば、軽く一千万は超えることと思う。
ある程度は払い終えたはずだけど、それをもいまの母さんは背負っている。
医者の懐事情は知らないけど、その給料をもってしたとしても、独立開業していない以上は、とても十年かそこらで全額返済が可能な金額ではないはずだ。
母さんはいまも、いったいどれだけのものを背負って生きているのだろう。
怒りが心中で渦巻いていた白川公園での僕は、そのことにすら微塵も気を回さずにいた。
事情を慮ることなく、無遠慮に刃物としての言葉で母さんを切りつけてしまった。
また一つ、罪の石ころが積み上げられる。
いくら母さんが許してくれたからといっても、このまま母さんの子どもで居てもいいんだろうか?という思いにどうしても駆られてしまう。
「私は、科学を基盤にして生きる、人間の生活というものを子どもの頃からずっと知りたかったのだ。自然と共存し、しきたりだらけの天狗の世のしがらみに飽いていた。私の両親や周囲の大人たちからは、人間と関わりを持ってはいけないと言われ続けてきたが、それでも、ありとあらゆる面で、人間への興味を抑え込む事は出来なかった」
僕の心がにわかにざわつき始める。
聞きようによっては、母さんとは興味本位で付き合ったともとれるからだ。
それでも、針が臨界点を振りきるまで、まだまだ猶予は残っている。
「私は言いつけを守らず、何度も京都や大津の街に繰り出した・・・そんな時、私は美歩と出会った」
「・・・」
僕は口を挟まない。
心に差し水を加えながら、彼の言葉を聞く。
「あれは夏の午後だった。京都の街を歩いていた私は夕立に打たれたが、天狗は雨に濡れることなど気にはしない。構わず歩いていた私に傘を差し出してくれたのが美歩だった・・・正直、彼女は魅力的だった。見た目もそうではあったが、何よりも中身。その芯の強さに私は一目で惚れ込んでしまった」
芯が強い。
いまのところ、その点に関してのみ彼の言うことに僕も同意したが、それを口に出す事をしなかった。
「・・・母さんは、当時の母さんはあなたの事をどう思って・・・」
嘘の旋律が聞こえてこないいま、出来るだけ先入観で彼を見ないように努めてはいるが、彼の言葉には違和感と不信感しか見出だせなかった僕は、その点のみ追究する。
彼の内面を知りたいとは思えなかった。
「何度も会う内に美歩は、素の私を愛してくれるようになった。いまはどうやらあのお方が封印なされたようだが、分かっているはずだ。私に人間の嘘は通用しないことを。一点の濁りもなく美歩は、私に恋慕の情を抱いてくれたよ。深い関係になるまで、それほど時間を要しはしなかった」
昔を懐かしむように語っていた彼だったが、ここからその表情に陰りが混ざっていく。
「だが、その時の私は、全く分かってはいなかったのだ。自分が何者であるのかということを。彼女は、我々とは次元の違う世界で生きているということを」
深い後悔の念が目に見えるかのように、彼の体から色濃く滲み出ている。
「でも、どうしようもなく母さんを好きになっていた・・・」
「ああ・・・」
彼は深くゆっくりと頷く。
「・・・母さんは、あなたの正体にいつ気がついたのかを、教えて欲しい」
核心に迫るための質問を、僕は彼に投げかける。
「あえてこう呼ばせてもらうが、君を出産した後でだ」
「僕が普通の子どもではなかったから・・・」
「そこで間違いないだろうな。あの時の、君のことで私に詰め寄って来た彼女の態度からして間違いあるまい」
こと、ここに至ってもなお、他人事のように話す姿勢を崩そうともしない彼の態度に、僕の心はあっという間に激昂する。
つまりは、彼は正体を母さんにずっと隠していたことに他ならない。
そう断定せざるを得ない。
「そのすぐ後だ。美歩が居なくな・・・」
頭を得体のしれない何かが支配し、手は自分の意思とは無関係に細かく震える。
「ふざけるなっ!」
言い終わるのを待たず、僕はそれまで保っていた彼との距離を一気に詰め、握りしめた右拳で彼の右頬を全力で殴りつけていた。
殴り飛ばされた彼は、背後の木に背中から叩きつけられた。
僕の後ろに居るさくらに動きは無いようだ。
いまの顔を見られたくなかった僕は、さくらの方を振り向きはしなかった。
「これは母さんの分だ」
持て余す怒りを余すところなく、言葉に乗せて彼にぶつける。
「・・・ああ、それでいい。君には私を罰する権利がある」
口の中から赤い血を垂れ流しながら彼は言った。
言葉から察するに、彼はわざと僕に殴らせるように仕向けたのだろう。
我が子の手で自らを罰するために。
彼に一撃を食らわせたことで、それくらいの気づきが出来る程度には冷静さを取り戻していたが、それでも、まだまだ激情の嵐は治まる兆しを見せない。
「母さんが、いままでどれだけの苦労を重ねて来たのか分かっているのか!あなたのどうでもいい興味本位の気まぐれのせいで人生まで狂わされた母さんが、どれだけ・・・」
僕は言葉を詰まらせ、両拳を力の限り握りしめた。
「そのとおりだ。私は己の欲望を満たそうとした結果、君と彼女を傷つけてしまった。後に残ったのは深い後悔だけだ。もっと君と美歩の無念を晴らしに来るが・・・」
「その口で母さんの名前を呼ぶなっ!」
まだ、全然足りない。
そう思った僕は彼ににじり寄る。
その刹那。
彼の背後の木の後ろから、僕よりも小さな何かが飛び出す。
「父ちゃんをいじめるな」
小さな男の子どもが僕の前に立ちふさがった。
歯を食いしばり、その体を震わせながら。
それでも、一歩も引くことなく、僕の前で彼の楯となっていた。
突然の展開に、頭がついていかなくなる僕。
「拓馬、出てきてはいけない。下がれ」
「いやだ・・・帰れ。父ちゃんをいじめる奴は帰れ」
僕は懸命に頭を働かせる。
彼らの言動からして、敵意しか込められていない眼差しを僕に向け続けるこの子は、彼の実の息子に間違いないだろう。
ということは、僕の異母兄弟?ということになる。
顔立ちも、どこか僕に似ていなくもないような気がする・・・
「私からもどうか」
更に、新たな女の人の声が、彼の奥の方から聞こえて来た。
「この人が過去にあなたと、あなたの母上に何をしたのかは私めも存じております」
その声がする方に目を向けると、さくらではないもう一人の大人の女性が、この子に気を取られている隙に、彼の背後に立っていた。
「後生でございます。願わくは、それでもその拳と心をどうか、お収めくださいませんか・・・このとおりでございます。この人はあなたの母上と交わった禁忌を犯した罰をすでに受けておりますが故に」
そう言って、彼の妻だと思われる、さくらの物に比べれば庶民的な着物姿の女性は、両膝を正座の体勢に折り曲げる。
その後で、地面に額をこすりつけるかのように、彼女は僕に向かって深々と頭を下げた。
「よせ、お前ら。これは私が精算しなくてはならないことなのだ」
四者三様の思いがこの場を飛び交う。
またしても僕は、母さんの時と同様に、思ってすらいなかった運命のいたずらの手によって、困窮のどん底に突き落とされた。
しかも、事情はより複雑さを増している。
まさか、ここで彼の家族が現れようとは。
そして、
「こやつを殴るのは、この一発だけに留めておくことじゃな」
更に一者一様の考えも、この場に加わって来る。
僕の右拳を覆うように、さくらが両手のひらを添える。
他ならぬさくらにそうされたことで、荒れ狂う感情の暴風雨は一気に鎮まっていく。
僕は不思議に思った。
さくらは母さんに会う前、僕のやることに手出しはしないと言っていた事を思い出したからだった。
「よほどのことがない限りとも言ったはずじゃぞ。これ以上はよほどのことであろう」
「それは・・・」
それは、確かに彼の妻子からしてみれば、夫であり父親である彼が目の前で殴られ続ける光景が、見ていて気持ちのいいはずがない。
その意味では、彼女らからしてみればよほどのことである。
「よいか。確かにこやつは正体を告げないままお主の母に近づいた。それは責められるべき行いじゃ。風太には殴る権利があるといえよう。そのせいで風太と美歩の人生は大いに狂ったのじゃからな」
さくらは僕をなだめるように言うも、次の瞬間にはたしなめる口調に変わる。
「しかし、お主の母と父とが愛し合ったのは双方の合意でのこと。その件に関しては、いくら二人の子である風太とて口を挟む道理はない。親である以前に、二人は風太と血の繋がった別の存在なのじゃからな。風太が激昂する気持ちは否定せぬが、これ以上はこの場に居る誰にも益をもたらさぬ。そやつが言ったとおり、こやつが罰を受けたのは間違いのないことじゃしな」
さくらは僕の顔をじっと見つめた後で、先ほどの体勢から上半身だけを起こして、無言で縮み上がりながらも事の推移を見守っている彼の妻と思う女性に目を落とす。
意味ありげなその動きの裏に隠されたもの。
「美歩に頼まれた言伝てを思い出すがよい。わらわが言えるのはここまでよ。この先は風太が答えを見つけ出すのじゃ。それはお主にしか出来ぬ」
口ごもる僕に、さくらはたたみかける。
母さんが僕に頼んだこと・・・あっ!
自分から話を切り出しておいて、それをいまのいままで忘却していたことに、腹立たしささえ覚える僕。
これを上回る乱暴狼藉は禍根を残すことはあっても、利益になることは絶対にない。
ここでいきりたつ心を鞘に収めなかったら、感情に命じられるまま無抵抗の者を必要以上に傷つけたという、消え去ることの無い烙印を自らの手で記憶に焼きつけてしまう。
「・・・くっ」
僕は左拳で立木を殴りつけた。
もちろん僕の方がダメージは大きいが、そんなことはどうでもよかった。
振り上げたままのこの気持ちを、どうにかして下さなければならないことの方がよほど大事だ。
嘘を聞き破る力が無くても分かる。
彼には仮初めなどではない家庭がある。
妻子共に彼とは深い絆、家族愛で結ばれているのは疑いようがない。
真実紗さんの前で語った、当たり前の親子の姿。
その確かな一つを目の当たりにしておきながら、それを自責の記憶で塗り潰す。
その行為が愚かでなくて何なのか。
母さんが僕に託したことで、彼に関すること。
「・・・・・・母さんが、あなたに伝えて欲しいと言ったことを言うよ」
未だ僕の心は収拾のめどがつかない。
それでも、母さんとゆびきりした約束を反故にしておきながら、いけしゃあしゃあと帰れるはずがないという気持ちだけは乱れることなくあった。
「・・・私に、僕を授けてくれてありがとうございます。そう言っていたよ」
彼に背を向けた状態で僕は言った。
決別の意味を込めて。
それくらいの意思表示はさせてもらわないと、どうにも収まらない。
母さんは、彼への恨み言を何一つ言ってはいなかった。
本当は言ってやりたいことの一つや二つは絶対にあったと思うけど、それを僕の口から代弁させることに多大な抵抗があったのだと思う。
僕を想って、自分の気持ちを抑えた。
ならば僕も。
「美歩が、私に?美歩は私を恨んでいないというのか?」
背を向けているので、彼がどんな顔をしているのかは分からない。
見る気も無かった。
「・・・言ったとおりだよ。後は自分で考えて・・・それと、これは僕から」
僕は静かに呼吸を挟む。
「家族と一緒に幸せに・・・さよなら、父さん」
そう言い残して僕は、道とはとても言えない来た道を歩きだした。
僕にはこれから、母さんとのやり直しの人生があって、彼にはすでに家族がいる。
もう交差することはない。
彼もそう思っているのか、僕を止めようとはしなかった。
行く先は山の下り斜面。
慎重に降りなければならない僕の視界が滲む。
悔しさからか。悲しさからか。それとも別の何か、花粉からか?
正体不明の涙を僕は流していた。
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