三日目 京都(その二)

 市内のアウトドア用品店で、店員さんにフィット感などのアドバイスを頂いた上で、生まれて初めて重厚な登山靴を購入した僕。

 せっかく登山靴を買ったんだ。これから登山を始めてみるのもいいかもな。

 などと考えながら、僕は靴を履き替え、電車で京都の街を鴨川沿いに北へと向かった。

 目的地は同じ京都市内にありながら、自然豊かな洛北の山々に抱かれた地。鞍馬。

 鞍馬寺や貴船神社などの由緒ある名所を擁するエリアである。

 地下鉄から二両編成の電車に乗り換える。

 道中、満員電車状態の車窓からは、比叡山の堂々たる山容が、建物に遮られることなく望めた。

 ピラミッドを思わせる形のいい独立峰。

 当初の旅の計画を立てる時に、荘川桜と競合した場所だ。

 京都市内には千メートル級の山として東の比叡山の他に、西には裾野が京都でも屈指の景勝地、嵐山となっている愛宕山がある。

 二つの山にはこんな昔話がある。

 何かの折りに喧嘩となった比叡山と愛宕山。

 その時に比叡山が愛宕山の頭を小突いて、愛宕山にたんこぶが出来た。そのせいで愛宕山の方が若干、標高が高くなった。

 そんな寓話があるくらいに比叡山と愛宕山は、京都の人々にとって身近で親しみのある山なのだろう。

 そして、比叡山を語る上で欠かせないのが、延暦寺だ。

 比叡山の全域に延暦寺の境内が点在していて、その事実だけでも比叡山と延暦寺が切っても切れない関係にあるのがよく分かる。

 残念ながら、その延暦寺の桜を愛でに行く時間はないけれど、その麓まで来られただけでも良しとすることにした。

 こんな時の使い古された常套句だけど、比叡山からの眺望を見るという楽しみは、後に取って置けば良いのである。

 車窓からの景色は、市街地のそれから初夏の山のそれへと移り変わっていく。

 やがて、終点の鞍馬駅に電車は到着した。

 改札を出た僕らを出迎えたのが、僕の身の丈はあろうかという巨大な天狗の顔のオブジェだった。

 まさか、ね・・・

 僕の心が、風に吹かれた枝葉のように、静かにざわめく。

 「何をしておる。こっちじゃ」

 常識はずれの大きさをした天狗の顔の前で立ち尽くしている僕に、少し先に進んだ位置からさくらが手招きする。

 「あ、ごめん。ごめん」

 唐突に湧いた思考をこの場に置き去りにして、僕は立ち止まるさくらに追いついた。

 駅前の広場を後にしたその次に見えて来たのが、いかにも古色蒼然を地で行く佇まいをした鞍馬寺の山門だった。

 いつ頃からこの地にあって、属する宗派があるのか無いのかなどといった、このお寺に関しての詳しい知識は何一つ持ち合わせてはいない。

 けど、都会のコンクリートジャングルの片隅にある寺院のように、辺りの街並みとどこか馴染めずにいるという感じは全くなくて。出入り口の山門からして、ここが普通の家ではない特別な場所であることを知らしめている。

 ここが宗教施設であることを、僕のような何も知らない人間にも充分に認識させる雰囲気がある。

 僕が育った大阪の中心部にも、いま暮らしている名古屋の街中にも、これほどの豊かな緑に囲まれたお寺があるはずもない。

 さくらの歩みは、そんな鞍馬寺の境内にまっすぐ向いている。

 ここに僕の父である人が・・・?

 しかし、僕の先を行くさくらは、山門の手前で向きを九十度右に変えて、なおも歩き続ける。

 どうやら、このお寺に居るわけではないようだ。

 その先にあったのは、鞍馬の町並み。

 なら、この家々のどれかに住んでいるということ?

 だけど、行けども行けども脇目を振ることなく、さくらは町中を素どおりしていく。


 「あな、山はいいのー」

 やがて、その町並みも途切れ、木々に覆われた谷の中を進み続ける。

 駅前で感じた僕の不安は、ここに来て急速に胸の奥から拡大の一途をたどっていく。

 新品の、履き慣れない登山靴が異様に重い。

 「この先で合っているの?民家があるようには見えないけど」

 「合っておる。安心せい」

 合っていると言われてもにわかに信用出来ないものがある。というよりも信用したくないというべきか。

 僕の出生と父親のことで、ナーバスに陥っている僕が居た。

 「ねえ、さくら」

 多分に現実逃避の意味合いで僕は、おもむろに口を開く。

 「何じゃ?」

 「願いって、いったい何なのだろうね」

 「どうした?やぶから棒に」

 僕らは足を止めることなく、話を続ける。

 「願い・・・夢や目的に言い換えてもいいけど、より良い人生を送りたいのだったら、夢とか目的があった方がいいのは間違いない。けど、それら同士がぶつかり合うことになったとしたら。僕の両親が別れたように。だったら、最初から持つべきでないってことになるけど、それは生きていく上でも無理だし。でも、避けようがないことでもある」

 「・・・なるほどの。実に風太らしい悩みじゃ」

 「僕は学校の先生になるのが小さい頃からの夢だったんだ。そのために大学に通っている。けど、その夢を、目的を持ち続けたことによって、僕以外の人とトラブルを起こしでもすれば。その人の人生を狂わせでもすれば、何のための願いなのかって思ってしまうんだ。

 すぐ傍を流れる川のように、どこまでも人生がつつがなく流れて行けばいいのだけれど、それが理想論でしかないことを僕は身をもって知っている。

 世の中は、ダムや上下水道施設のような、水の流れを遮る物で溢れているのだから。

 「ごめん。重たすぎるよね。こんな質問は」

 「構わぬ。お主らの悩みを解決し、願いを成就させてやるのもわらわたちの生業の一つじゃからの。他者を貶める謀略を練るのでない限りは、いつでも知恵を貸そうぞ」

 そう言ってさくらは口を閉ざす。

 やっぱり、人の願いを叶えるのが仕事だという神様の豊富な経験をもってしても、この質問は難解なのだろうか?と思いかけたその時だった。

 「自然の本質は循環じゃ」

 そこはやはり、さくらは百戦錬磨だった。

 口を開くまでの早さは脱帽だ。

 僕が何年もかけて答えが見出だせなかったものを、瞬く間に引き出して見せたのだから。

 「その一員である生物もまた、その本質から外れることはない。人間ももちろん同様じゃ。人間の営みもまた循環し未来へと繋がっておる。願いの類いもその一つと言えよう」

 僕はさくらの一言一句を聞き逃すまいと、耳を傾ける。

 幸い、僕らを取り巻く環境は無音に近い。

 他の音に遮られることなく、さくらの声は僕の耳に届く。

 「じゃが、そこで忘れてはならんのが、生物に出来ることには限りがあるということじゃ。風太が大学に入学することが出来たということは、その陰で誰かが涙をのんでおる。が、それを風太がどうこうしてやることは出来ん・・・出来ることをやるしかないということなのじゃ」

 「・・・うん。そうだね」

 実のところ、僕はすでにその考えに至っていた。

 さくらが居て始めて、この旅は成立しているのだから。

 だから、僕が真に欲しかったのは質問の答えではなく、お墨付き。答案の点数だった。

 それでいいんだよと、直接でも間接でもいい。

 誰かの承認を受けたかったのだ。

 「・・・さくら。僕は、僕の信じる教師を目指すことにするよ。母さんのように逆境を乗り越える強さと、真美紗さんのような信念を貫きとおす大切さを子どもたちに教えてやれる先生に」

 「・・・やはり人間はいいのう。命に限りがあるからこそ、それを逆手にどこまでも輝けるのじゃからな。それ故にわらわは人間を応援したくなるのじゃ・・・風太ならきっと善き教師になれるわい。わらわが保証する。じゃが、まだ足りぬ。そのためにはもっと広く、深く、様々な角度からこの世界を見て回るのじゃ。その中で得た経験は必ずや、教師としての風太の糧となろう」

 「うん。その事はさくらがこの旅の中で教えてくれたことだもんね。絶対に忘れない」

 僕は心の中で固く誓う。

 この先、何があってもだ。


 「む、ここか?」

 と、さくらはここで足を止める。

 目をつむり、まるで暗算でもしているかのようなさくら。

 「・・・うむ。間違いない。ここからじゃ。この先に風太の父はおる」

 「この先にって・・・ただの山しかないけど」

 僕の眼前にあるのは、人間が生活していることを匂わすものが一つもない、北山杉の産地ということもあって、それなりに整備が行き届いた山だけだった。

 「風太が言うとおり、北山杉が生えておる以外は何の変哲もない何処にでもあるただの山じゃ。金や銀を掘ろうと思っても、無駄骨に終わってしまうのう」

 「いや、この辺で金とか銀が採れるのなら、佐渡金山のように、とっくの昔に鉱山が開発されているはずだから・・・林業作業員か何かなの?」

 僕は山の中で仕事をする、代表的な職業の名を挙げた。

 言ったとおりであって欲しいと。

 思っているとおりであって欲しくないという願いを込めて。

 「それは風太自身の目で確かめい。ここからは山の中を行くぞ・・・風太が不安に思うのも分からんでもない。じゃから、ここで風太が引き返すというのなら、それはそれで構わぬ」

 「つっ・・・」

 さくらの言葉に僕は、自らの頬を両手のひらで挟むように叩いた。

 引き返す?

 考えるまでもなく、そんな選択肢など却下だ。

 僕のルーツを明らかにする最後のピースを目の前にしたここまで来ておいて、臆病風に吹かれて引き返そうものなら、この旅はいったい何のためにあったのかということになる。

 何のために、母さんと一緒に過ごす時間を割いてまでここに居るのか?

 「・・・行くよ。ごめん。鞍馬に来た時から僕が認めたくなかったことが現実になるのを認めたくなかっただけなんだ」

 「腹が決まったようじゃの。では、行こうぞ」

 そう言ってさくらは、念願が叶った時のような嬉しさを隠しきれない顔をして、雑草が生い茂る山中へと分け入っていく。

 僕はその後に続いた。

 人の山だから不法侵入じゃないの?だとか、そういう逃げ口上みたいなのは思いついても、外に出すことなく。

 人の手がある程度は加えられているとはいっても、きちんとした登山道が整備されているはずもない、自然そのものの山の斜面を登って行くのは、思っていた以上に過酷な道程だった。

 昨日の若草山の比ではない。

 登山靴が必要だった理由が、いまならよく分かる。

 足首までがっちりホールドされていない普通の靴だったら、歩く度に中に土は入るわ。足との一体感がなくて歩きづらいわで、とても山歩きの相棒とはなり得なかっただろう。

 元のスニーカーのままだったら、心は折れていたかもしれない。

 木の幹を手がかり足がかりにしながら、時には斜面に這いつくばるようにして、露出している太い木の根っこを掴んで強引に体を持ち上げる。

 下りは下りで、逆に根っこの上で足を滑らせると谷底まで落ちていってしまいそうで、気が抜けない。

 上着も下着も、雨に降られたかのように汗でしっちゃかめっちゃかだ。

 呼吸も絶えだえ。

 これまで率先して運動に取り組んで来なかった僕の体は、とっくに黄色信号が灯っている。

 それでも僕は、登っては下ってを繰り返す。

 頂上ではなさそうな、四山目の幅が長い稜線に着いた辺り。

 木々に覆われ、眺望は無い。

 服が汚れるのもお構い無しだった。

 たまらず僕は、土の上で四つん這いになって、息を整える。

 「着いたぞ・・・ここじゃ」

 さくらは足を止める。

 首から上だけを動かして、僕はさくらが居るほうに目を向ける。

 僕と同じ条件どころか、よりハンデがある、登山に全く向くはずのない着物と、足袋に雪駄で山の中をかけずり回ってきたさくら。

 そのはずなのに、微塵も息が乱れていないどころか、着物に一点の汚れすら見当たらない。

 汗の一滴すら、色白の額に滲んではいない。

 「小宮山孝輔晴信」

 さくらの声に、僕は上半身だけを起こした。

 日本では明治時代に途絶えてしまった、侍の家系に生まれた者のように、ミドルネームがある名前をさくらは山の中で叫ぶ。

 見渡す限り、木に覆い尽くされた山中。

 自然によって隔絶され、支配された場所。

 このような場所に人が暮らしているなど、普通は考えられない。

 それでも居るとすれば、仕事としての林業作業員かまたぎ。あるいは登山中に遭難した人くらいのものであるはず。

 後は世捨て人?

 「小宮山孝輔晴信はいずこか?我が召喚に応じよ」

 なのに、さくらは大声で現代日本人には居ないはずのその名前を呼び続ける。

 そこに、僕と親しげに話をしていたさくらの姿は、欠片も見当たらない。

 これが神としての、さくら本来の姿なのだろう。

 頭上の枝葉が音を立てて揺れる。

 間を置かず頭上から何かが落ちて来たと思ったら、それは、何の音も響かせることなく、ふわりと地面に着地する。

 それこそ忍者よろしく。

 重量という概念がまるで無いかのような、花びらの如く。

 着地の仕方からして人間業ではない。

 林業作業員というのは僕の最後の砦だったが、いまこの時をもって、それすらも陥落してしまった。

 風を操る能力を僕は持っていた。

 この地に残っている伝承。

 ここまで来ると認めるしかない。僕の父は・・・

 「そちが小宮山孝輔晴信か?」

 さくらの眼前で左膝を地面につき、恭しく畏まる人物。

 「はっ。拙者が小宮山孝輔晴信に相違ありませぬ」

 小宮山孝輔晴信を名乗る、肩まで伸びる黒髪に山伏のような衣に身を包んでいる者。

 外見こそ普通の大人の男の姿をしてはいるが、僕には分かる。

 通説どおりの真っ赤な顔に、太鼓のばちのように長い鼻をした見た目ではないが、間違いない。

 「こやつがお主の父じゃ。とっくに気づいておるののじゃろう。天狗じゃと」

 さくらは感情を交えずに、僕の結論を裏づけた。

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