二日目 奈良(その三)

 ぷりぷりとむくれた顔で、腕を組みながらさくらは、若草山の登山道を先に行くぼくの後に続く。

 山の斜面のように機嫌が傾いている。


 奈良へ立ち寄ろうと言ったぼくへの恨みや、あられもない姿を見られた気恥ずかしさ等々。

 その様な感情を糧に、きれいな桃色の瞳はうっすらと涙目を維持しているのだろう。

 レーザービームのように、負の感情にまみれた視線がさっきからぼくの背中に照射され続けている。

 ミサイルが飛んで来ないだけまだましだ。


 昨日に感じた母さんの視線とは明らかに異質だ。

 プレッシャーの量がけた違いなのである。


 木々に覆われていた視界が開けた。

 若草山一重目からの、晴れ渡った奈良盆地の素晴らしい眺望をもってしてもなお、彼女の機嫌をなだめることは出来ないようだ。


 「ほら、さくら。鶯が鳴いているよ」

 「・・・・・・」


 そんな立腹中のさくら姫様は、ぼくが声を掛けようと振り向いた瞬間に、目と口を閉ざし、全力で明後日の方向に顔を背けてしまう。


 このように、ぼくもなんとか鹿の一件後のさくらの立腹を鎮めようと試み続けてはいるのだが、これまでのところ全て空振りに終わっている。

 とりつく島が無いのだ。

 山を登っているはずなのに、島影一つ見当たらない大海原をさまよっているかのような気分にさせられる。


 こんな調子で、結局ぼくらは、まともな会話を成立させることなく二重目の表示を通過し、三十分ほどで頂きに登り着いてしまうという、登りに関してはかなり寂しい内容のハイキングになってしまった。


 三重目。

 山頂から見る風景は、低山からの物とはいえ、やはりぼくの期待を裏切ってはくれなかった。


 近くでは仰ぎ見るほどに巨大な東大寺の大仏殿や奈良県庁の建物も、はるか眼下の大地に置いてきてしまったかのように小さい。


 人の手では到底生み出すことの出来ない、圧倒的なまでの大自然の雄大さがこれでもかと風に乗ってぼくの頬に吹きつける。


 遠い遠い人類の先人たちが嵐や雷といった、当時はメカニズムが解明されていなかったはずの災害級の自然現象。

 それを日本では風神雷神といったような、神そのものや神話にフィードバックさせた気持ちが、ここからなら分かる気がする。


 危険極まりない自然現象を、自分らの想像の範囲内に収めることで、恐怖感をほんのわずかでも和らげようとしたのだろうと。


 気象学と観測技術が発達した現代に生きるぼくが、そんな昔の人の行いをナンセンスと切って捨てるのは簡単だが、それは冒涜以外の何物でもないだろう。


 ぼくがこのような、この旅に出る前なら絶対に考えもしない、いささか大仰な事を思うのも、ちょっと離れた場所で同じ風に吹かれている、奈良公園でかなり意外な一面を見せてくれた神様のせいだ。


 山頂でもかなりの人数の人たちがぼくらと同じ風景。光景。景色を見下ろしている。

 登山道でも大勢の人たちとすれ違った。


 機嫌が元に戻るまでさくらのことはひとまず置いておくしかないぼくは、とりあえずは当初の目的を果たすべく、山頂にあった大きな岩の上に座ってから、寝そべった。


 目を閉じ、力を抜き、ありとあらゆるものを心から取り除いていく。

 風が肌を撫で抜ける。

 背中に感じる、太陽の熱をため込んだ岩の硬すぎる感触さえなければ、空を飛んでいる気分になれるのかもしれない。


 やがて、思案にふける。

 母さんのこと。

 父である人のこと。

 これからの将来のこと。


 過去はもうどうしようもなく、ぼくがいま無骨なベッドにしている岩ほどに不動の物となっているけれど、その事を嫌というほど思い知らされて来たからこそ、その上に創るべき未来は、後悔の無いように構築していかなくてはならない。


 そのための最大の障害になっているのが、詳細な設計図が手元に無いことである。


 あれこれ、こういう建物にしたいという企画書はあるけれど、予算の目処もたってはいないし、資材が確実に手に入るという保証も、残念ながら無い。


 人手に関しては、ぼく一人がメインで施工していくので問題はないが、いつなん時、建物を崩壊させるほどの災害に見舞われるかも分からない。


 未来を建てるにあたって、現場には逆風どころか竜巻が吹き荒れているのが現状だ。

 竜巻が過ぎ去るまで、良い意味で開き直りながら待つしかない。


 でも、母さんはこれ以上に見通しの利かない砂嵐の中を歩き続けて来ながらも、母さんなりのいまを生きているじゃないか・・・!


 ぼくは、はっと目を開ける。

 がばりと、上体を起こした。

 突然のぼくの行動に、何事かと目を丸くする周囲の人たちの視線は気にならなかった。


 ぼくは確かに、これまで辛い境遇の中に居た。

 それは紛れもない事実だ。

 自分をないがしろにする気はない。

 けれど、一番辛い訳ではない。

 そこは履き違えては駄目だ。


 大事なのは、バランスが取れているかどうかではないのだろうか?


 身体面もそうだけど、精神的にバランスが保てていなければ、当然のことだけど人は冷静な判断を下せない。


 名古屋でのぼくが正にそれだ。

 あの時のぼくは、世界一不幸なつもりで母さんをこきおろしていた。

 まだ二十四時間も経っていない、昨日の自分をぶん殴ってやりたい気分に駆られる。

 ぼくは万能にはほど遠い、普通の人間なんだ。


 ・・・旅の中間決算書にぼくは判を押す。

 余計な物を捨てたことで、鉛のように重かった心が鉄くらいにはなったろうか?


 ぼくは改めて、麓の奈良の市街地に目を向ける。

 こころなしか、景色がさっきよりもまばゆく目に映るようになった気がする。

 風の流れも、山登りで火照った体に心地良い・・・


 過程はともあれ、とりあえずは心の整理をつけるという当初の目的を果たせたとぼくは思った。

 母さんと、さくらのお陰だ。


 この気持ちを抱いた状態でもう一度さくらに声を掛けようと思い立ち、大岩から立ち上がろうとした時だった。


 「すまぬ」


 ボクシングのカウンターのようなタイミングで謝罪の言葉が聞こえて来たと思ったら、そこには頭を下げるさくらの姿があった。


 「わらわのせいでつまらぬ山行になってしもうた。すまぬ」


 そう言って、もう一度さくらは頭を下げた。

 神様なのにプライドは無いの?などと言うつもりは無い。

 むしろ、身分や立場など関係なしに、素直に頭を下げられることが素晴らしいとさえ思う。


 「気にしてないよ」

 ぼくも素直に、いまの気持ちを口にする。

 いまの晴々とした気持ちは、文句なしにさくらがお膳立てしてくれたようなものだからだ。

 ぼくはそれに手を加えたに過ぎない。


 「怒って、ないのか?ずっと険しい顔をしておったが・・・」

 さくらを引かせてしまうくらいの険しい顔をしていたのかと、ぼくは心中で苦笑する。


 いままで知らなかったけど、どうやら、思考中の五十嵐風太という名の男はかなり眉間にしわを寄せているようだ。

 引け目があるとはいえ、神様にそう思わせるのだから相当なものなのだろう。

 我ながら大したものだ。


 逆に、さくらにそのような思いをさせていた方がずっと心に引っ掛かる。

 ぼくが気持ちを整理していた時、さくらも考えていたのだろう。

 どうすれば誠意のこもった謝り方が出来るかを。


 言葉が真っ直ぐでいて少しも飾っていない分、ダイレクトにぼくの心に届いた。


 原因の程度にもよるが、ぼくの場合は少しだけ寂しい思いをしただけのことである。

 たったそれだけのことで、これだけの謝罪を二度もされてもなお許さないというのであれば、ぼくに生きていく資格はない。


 「全然だよ。正直怪しいところはあるけれど、いったんは気持ちの整理もつけられたしね・・・それよりもほら、いい風光景色が見えるよ」

 「何じゃ?その聞いたこともない珍妙な言葉は」


 ようやくさくらは笑顔を見せてくれた。

 ぼくの天岩戸作戦が成功した瞬間だった。


 「いま考えついたんだ。風景と光景と景色の三つの単語を一つの四字熟語にしたんだけど、やっぱり駄目かな?」

 「駄目に決まっておる。零点じゃ」


 言葉では最低点を下しながらも、さくらはぼくと体が密着するくらい近くに座ってくれた。


 「いい言葉を閃いたと思ったんだけどなぁ・・・」

 言うほど残念な思いを感じることなくぼくは言った。


 「・・・わらわは何故か、昔から大きな動物には舐められるのじゃよ」


 ここで鹿のことに触れようものなら、順調に推移している行き当たりばったりな作戦の全てが水の泡になると思ったぼくは、次なる会話の糸口を掴もうと思案にふけていた。


 だけど、意外なことにさくらの方から鹿の話題に触れてきた。

 突然のことに、見た目子供の容姿が原因じゃないの?と、率直な意見が危うく口をついて出そうになるも、すんでのところでそれを飲み下す。


 「そう言えば、五頭の鹿の全頭がさくらに群がっていたっけ。いまのところ、ぼくにしか人間の目には見えていないのに」


 「元より、人間よりもずっと自然に近いところで生活を送っている連中じゃ。わらわの姿が鹿に見えて、人間に見えないのは、その差じゃろうな。もしかすると、元から鹿を含めた人間以外の動物には神と人間の明確な区別はついていないのかもしれぬ」


 「そうなのかも知れないね。あの時、ぼくは何て罰当たりな鹿たちなんだろうって思ったから」

 「誰かが常に傍にいてくれたらあのようなことには決してならんのじゃが、わらわだけになるとあのありさまという訳じゃ」

 「それでぼくから離れようとはしなかったんだ・・・」


 「風太が気に病む必要はない」

 もうちょっと事情を聞いておくべきだった。

 男のぼくの都合を優先させ過ぎたと、反省の念がこみ上げかけて来たぼくの機先を制して、さくら。


 「あらかじめ言っておかなかったわらわが悪いのじゃよ。風太がそのことを知っておるはずがないのじゃからな・・・しかし、まあ、確かにいい顔をしておる。気持ちの整理がついたというのは、どうやら本当のようじゃな」


 「完全ではないけどね。嫌いなことは嫌いなままだし」


 嫌いな物の具体的な例として、ぼくは漬物である奈良漬けのパッケージを思い浮かべた。

 浅漬けならまだしも、何日もぬかなどの中で漬け込まれた物を食べてお腹を壊さないのだからか?

 そう思うと、どうしても漬物は喉を通らないのである。

 

 「・・・何にせよ、旅の一幕をつまらなくさせた詫びだけはさせてほしい」

 「別にい・・・」

 「最後まで聞くのじゃ。これはたったいま思いついた訳ではないぞ。麓の甘味屋で風太の気持ちを耳にした時から考えておったことじゃ。風太の人生に大きく影を落としてしまっている力。その両方ともを生涯封じてやろうと思っての」


 「え?・・・出来るの。そんなこと」


 目の前に鏡がなくても分かるほどに、ぼくは目を見開いていた。


 「もちろんじゃ。それくらいのことはわらわにも出来る。して、どうするのじゃ?」


 真摯な眼差しでさくらは、そんなぼくの目をじっと覗き込む。

 答えはずっと前から決まっている。


 「もちろん封印して欲しい」


 このような形だとは夢にも思ってはいなかったけど。


 もし、無くなるのであれば成長するに従っていつか親不知が抜けるように、歳を重ねるごとにやがて能力が廃れていくみたいな感じなのを想定していたけど、いまとなってはどっちでもいい。


 ずっとこの日が来ることを夢見ながらも諦めていたぼくは、二つ返事で答えた。

 後先考えずに。


 「承った。わらわもお主に会えなかったら、飛騨牛も、ひつまぶしも、伊勢えびにあわびも、吉野葛も食べられんかった訳じゃし。持ちつ、持たれつじゃな」


 え?二つの能力に振り回され続けて来た、ぼくの十八年間とそれらは同等なの?

 さくらの言に得心しかねるものがあったのは確かだけど、これまでも。そしてこれからも人生に我慢は付きものだと思うことで、ぼくは自分を無理やり説き伏せる。


 そんなぼくの内心を知ってか知らずか。さくらは静かに目を瞑り、集中力を高めているとでもいうのか?何らかの力を貯めているかのような仕草を見せる。


 見た目には何も見えないけど、ぼくの肌はさくらから迸る何かを敏感に捉えていた。

 ぼくは、ごくりと生唾を飲んだ。

 目の前の出来事が現実のことなのか、仮想のことなのかすら分からなくなる。

 ぼくと同じものを感じとっているのか、周りにいる人たちも何処か落ち着かないように見える。


 「ゆくぞ」

 ゆっくりと目を開けたさくらは、ぼくの眼前で手のひらの厚みほどの隙間を空けて、右手をかざす。


 さくらの右手は、うっすらとピンク色の光を放っているように見えなくもなかった。


 ごく自然な流れでぼくは目を閉じる。

 恭しい念が入り混ざった、何とも言えない気持ちで一杯になった。


 「・・・・・・終わったのじゃ」

 「えっ、もう」

 「そうじゃ。これで風太は皆と同じ、普通の人間になれたということじゃ」


 人ならざる二つの力がぼくを苦しませ続けた十八年もの歳月に比べれば、刹那以下のあっけない幕切れだった。

 時間にすれば十秒未満だったろう。

 あまりのあっけなさに、にわかには信じられないものがあった。


 「嘘だと思うのなら試してみよ。二つともな」

 「わ、分かった・・・」


 ぼくはまずイヤホンを恐る恐る、ゆっくりと外した。

 どうなのだろう?

 周囲から嘘の旋律は少しも聞こえてこないが、それは単に、いまは嘘をついている人がいないだけかもしれない。

 絶景を前に、嘘もつけないくらいに圧倒されているのかもしれない。

 だから、嘘を聞き破る力については、いまは何とも言えない。


 なので、ぼくはもう一つの、風を吹かせる異能を試してみることにした。

 吹け。とぼくは念じる。


 いまの若草山山頂の風は、強くてもそよ風程度。

 一度念じれば、それまでずっと無風であったとしても、さくらの神域でやったような桜吹雪を巻き起こすくらいの突風を、間髪置かずに発生させることが可能だ。


 それくらいの風は・・・・・・一向に吹いては来ない。

 いつまで待っても、大量の花びらを吹き飛ばすだけの力があるとは到底思えないようなそよ風しか吹いて来ない。

 何度も試すも、結果は同じだった。


 「吹いて、来ない。吹いて来ない・・・っ、吹いて来ないよ。さくら」

 傲岸不遜にも、感極まったぼくはさくらに抱きついたのだった。

 十八歳にしてようやくぼくは、呪縛としか思えなかった二つの枷から解放されたのである。


 「あ、ありがとう、さくら」

 嬉し涙をぼくは懸命に堪える。


 「・・・仕方のない奴じゃのう。今回だけの特別じゃからな」

 幼い我が子をあやすかのようにさくらは、ぼくの体と心の両方をしっかりと受け止めてくれた。

 少しも突き放そうとはしなかった。

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