二日目 鳥羽(その二)
「お主もこれまでの人生で体験してきたとおり、食事とは生き物の命を頂くことに他ならぬ」
「うん。そのことは、小さい頃から院長先生たちに言われてきたからね。分かるよ」
「良い教育を受けてきたのじゃな。更に旅の食事とくれば、その土地固有の歴史と文化に触れることも含まれてくるのは、前に述べたとおりじゃ」
「それに関しては、さくらに教えられたよ」
「もっと言うと、食べるという行いには単に味覚のみを使うのではなく、嗅覚は当然として、視覚も聴覚も触覚も。五感の全てを使役する、生き物にとっての命を未来と次代に繋いでいくにふさわしい崇高な生業じゃ」
「う、うん」
「このような営みは他にあるか?故に神であろうと人間であろうと、我々は日々心して食に向かわなければならん。嫌いじゃからと残すなどもっての他じゃ」
「・・・・・・」
さくらの過去と旅の目的を知り、雨と晴れのちょうど中間の絶景を眺めたその後は、逃れられる訳もなく鳥羽における名物料理の時間となった。
茶店風の佇まいのお店を選んだぼくら(他の人から見ればぼく一人)は、開店間際ということもあって、奥の座敷へと通された。
無論、さくらが上座だ。
さくらの背後にある障子戸からは、障子紙にろ過された春の日差しが、やんわりと室内を明るく包み込む。
値段の高さという点では、この旅の中で間違いなく不動の第一位である品々を前に、ぼくは目眩と息切れを起こしていた。
最後は奇跡の絶景に救われたから良かったけど、それでもさくらの告白は、ぼくに被る部分が少なからずあったこともあって、いまも心に澱として残っている。
聞いただけのぼくがそう思うのだから、当事者であるさくらにとってこの問題は根深いはずだと思い込んでいた。
しかし、炊き合わせに天ぷら、茶碗蒸しといった料理の数々を、御高説を交えながらも、いかにも美味しそうに食すさくらにぼくは面食らっていた。
いつもどおりのさくらに安堵しながらも、あまりの言動の隔たりの差についていけずにいた。
かといって、いまの美味しい物に囲まれ幸せいっぱいのさくらに水を差すような野暮な真似が出来るはずもない。
実際、出てくる品々のほぼ全てが絶品だった。
漬物以外は。
テーブルの上に置かれた、二つのメイン料理。
伊勢えびのお造りとあわびのバター焼きのどちらを食べるかでちょっと迷ったあげく、ぼくはお造りのお皿に箸を伸ばした。
伊勢えびは、漁自体は五月から禁漁になっているけれど、食べることは五月の上旬まで可能というギリギリセーフだっただけに、しっかりと味わって食べねばという思いがひとしおだった。海の食べ物だけに。
「ぷりぷりの歯ごたえじゃのう」
わさびをつけ醤油に溶かすのではなく、ちょびっとだけ刺身にわさびを乗せてから醤油につけて食べる方が、身の塩辛さが抑えられるだけではなく、身の甘さが引き立つとさくらに教えられたのでそうすると、確かにそうだった。
魚介類を生で食べることに抵抗のない日本人で良かったと思えた。
次いで、あわびのバター焼きを口に運ぶ。
「いつ食べてもこの柔らかさと味わい深さは驚愕じゃな」
濃厚な旨味はソースにも負けることなく、しっかりと味を主張している。
大学生になってから一度だけ足を運んだ、回転寿司などで食べる生の貝類はおしなべて硬いけれど、熱をとおすことでこんなにも柔らかくなることが驚きだった。
伊勢えびの次席ではない、堂々たる主役と言えた。
「ふう・・・料理はまだ残ってはいるが、ひとまずは堪能したのう」
「そうだね。最初はあまりの値段の高さにびっくりしたけど、これだけ美味しいのなら相応の値段だよ」
ぼくが頼んだ、見事な料理の品々の金額は一万円オーバー。
なんと、名古屋のアパートの家賃の三分の一ほどになる。
最初はこれほど高い食事がこの世にあること自体信じられなかったけど、こちらの方でも免疫が出来てきたのだろう。生まれて初めて食べた美味しさに、庶民の金銭感覚から来る考え方は大分塗り替えられたのである。
しかも、この変化をぼくは好ましくさえ思っていた。
母さんと和解出来たことが、心の余裕に繋がっているのかもしれない。
「ほう。少しは考えが柔軟になったようじゃな。重畳重畳」
ぼくの変化を容認してくれてから、ぼくが箸を着けない漬物を、卓の反対側から箸でつまむさくら。
漬物を小気味よく噛み砕く音が耳に届く。
「さくらの言う、世界が拡がった感というものがいまなら少しは分かるかもね。何て言ったらいいんだろう・・・味が食べる側の期待のずっと上を行くって言うのかな?食材の美味しさと料理する人の努力が食べる側を上回る。これは別に料理人の仕事に限ったことじゃないよね。これまでそんなことはほとんど思って来なかったけど、いまはそれを教えてくれたさくらに感謝したい気持ちでいっぱいだ」
「苦しゅうないぞ」
ふふん。と、正座した状態で目を瞑り。腕を組み。背を反らし。絵に描いた様に鼻高々なさくら。
鼻息も目に見えるようだ。
「こんなことを聞くのもなんだけど、どうしてさくらはぼくたちみたいに食事をするの?昨日言っていたよね。食べなくても生きていけるって」
「確かに食わずとも生きていける。体の面ではな。だがな、食わねば心が生きて行けんのじゃ。興味本意で人の食べ物を食ううちにいつの間にかそうなっておった。いわば生き甲斐なのじゃよ。あやつのことがあってから、その思いは益々強くなっていったわい」
どこか神妙にも見える面持ちで、胸に右手のひらを当てるさくら。
翻ってぼくは、これまで食事という行為をどう捉えていただろうか?
必要な栄養が摂れ、腹がいい具合に満たされれば、味に関しては不味くなければいいや。
その程度にしか思っていなかったぼくは、この旅の中で美味しい料理は体のみならず、心も満たすことを知った。
この幸福感はお金で買えることを知った。
毎日これだけ高級な食事を続けられる財力があるわけないけれど、これからは月一くらいで、一ヶ月頑張った自分へのご褒美と称してこういう物を食べに行こうと心に誓う。
「ところでさくら。お願いがあるんだけど・・・」
思考が一段落したところで脳裏に浮かぶのは、十年くらい前に目にした山の頂上からの光景。
脳内で美化されている面は否めないけど、彼方の山の向こうに無限の拡がりをかきたてずにはおかない、ぼくにとって深い意味を持つ眺望の記憶が蘇る。
「ん?なんじゃ」
「さくらはこの後に奈良経由で京都に行くつもりなんだよね」
「そのつもりじゃが」
何かを咀嚼しながらさくらは、ぼくの目をまっすぐに見据えながら言った。
「ぼくも、寄り道してもいいかな。奈良には素通りせずに行きたいところがあって、それから大阪にも行きたいんだ」
「奈良に寄る、じゃと・・・」
気のせいでなければ、さくらの顔が曇ったような?
わずかな変化だけど、青空の端で沸き立つ巨大な積乱雲のような不吉さがそこには込められているような気がした。
「?そう、だけど」
さくらの態度に引っ掛かるものを感じ取ったけど、それが明確になる前に話の腰が折れる。
ぼくの背後の襖が、そっと引き開いたからである。
失礼します。
折り目正しく正座し、和装姿の女の店員さんが室内に入る前に頭を下げてから、お盆を手にぼくの傍へと、微かに衣擦れの音を立てながらやって来る。
高級感たっぷりのお盆の上には、これまた値が張りそうな黒いお椀が一つ乗っていた。
「おおーっ」
手放しで喜びの声をあげるさくら。
赤だしでございます。と言った後で店員さんがふたを開けると、先ほど別の男の店員さんが持っていった伊勢えびの頭と足が、赤だしの中に浸かっている。
一通りの説明を終えたのち、店員さんはぼくらの前から辞する。
見た目からして、いままでの味噌汁とは雲泥の差がある。
日常的に伊勢えびの味噌汁が出る家庭などまずないから、当然だろうけど。
ぼくは伊勢えびを赤だしのお椀から取り出すと、その身をほじくり出すための名前も知らない銀の道具を手に取る。
店員さんが説明したとおり、確かに面倒な作業だったけど、この先にある味を求めてぼくは、心して身を丁寧に殻から取り皿の上に出していく。
さくらはぼくの作業を、両腕で頬杖を突きつつにこにこしながら見ていた。
手伝ってはくれないようだ。
数分後、ほんの少しの苦労の甲斐あって、伊勢えびの身はほとんど取り出せた。
その身を全て赤だしの中に戻す。すする。
期待は裏切られなかった。
「やはり、これより美味い味噌汁はないわい」
極上の栄養素が、ぼくとさくらの体と心を満たしていった。
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