二日目 鳥羽(その一)
旅の二日目は朝から雨になっていた。
小雨ではなく、かなりの雨量で名古屋の街をまんべんなく湿らせていく。
名古屋駅構内を行き交う半分以上の人が傘を手にしながら、各々が目指す方向へと歩みを進めて行く。
残るはレインコートに身を包んでいるか、折り畳みの傘を鞄の中に忍ばせてあると思われる。
おそらく、雨具を持たないでいる人はごく少数だろう。
鳥羽までの片道切符を購入して、ぼくらは自動改札機を通過した。
ぼくらが乗った特急電車の席は進行方向左側の、伊勢湾に面した方だった。
電車が進んでいくにつれて、名古屋駅周辺の高層ビルが徐々に低く細くなっていく様は、言うまでもなく名古屋から遠ざかっていることに他ならない。
母さんの顔が幾度もよぎったが、ぼくはその度に逡巡をどうにかして振り切る。
十八年もの間に欲し続けた、潜水艦のように心の海に潜伏していた情念は、思っていたよりも根深くて強いようだ。
ふとスマホを見ると、電話番号が一件だけ着信表示されていた。
母さんの番号に間違いないと結論づけたぼくは、その番号を美歩母さんという名前で登録。
電車の中で作業したと言えるのはこれだけで、この旅に関する二つのことを脳内で練った以外は、残りの移動時間をただ雨に濡れる光景を眺めるだけに費やしていた。
それは、さくらも同様のようだった。
何をするでもなく、車窓の向こう側に目を凝らしていた。
雨には雨の風情があるという人はいるのだろうけど、若輩者の若造であるぼくはその気持ちがよく分からない。
両手を挙げて歓迎することが出来ないでいる。
体は濡れるし。足下は滑りやすくなるし。酷い時は泥はねの水を全身に浴びることになるのだから。
雨が全く降らなくても水不足にならなければいいのにな。とさえ思う時がある。
そんなぼくを未熟者とあざけり笑うかのように、名古屋を発った時よりも鳥羽の雨は、
重力と手を組んで激しさを増しているように思えた。
空の色よりも濃い、青色と灰色が混ざりあったような色をした伊勢湾。
この真っ直ぐ北。海を縦断した先に名古屋がある。
常に個々人の意に沿うように天候が推移してくれるはずもなく、この雲行きのままでは、晴天のリアス式海岸の景観は次に来た時のおあずけとなりそうだった。
「こっちじゃ」
電車を降りて、鳥羽駅の改札を出たところで、ようやくさくらは、電車の中ではずっと閉ざしたままだった口を開いた。
人間のように、どこか体の調子が悪いのではないかと、本気で危惧する。
たった一日だけの付き合いに過ぎないぼくでも、今日に入ってからのさくらの口数の少なさは、明らかにおかしいと思えたからである。
そう思うぼくを余所に、さくらは傘も差さずに駅の外に出た。
ぼくは慌ててザックから折り畳み傘を取り出して開くと、さくらに続いて雨の中に飛び出した。
雨の天気を前に、駅構内には大勢の人達がたむろしていたのに比べ、外を歩く人の姿は極端に少ない。
傘に入る?と言ったら、痛み入るが、要らぬとさくらは返したので、ぼくは内心はらはらしながら傘を差す。
見た目には雨ざらしになっているさくら。
一見、なすすべなく雨に打たれているようで、よく見てみると桜色の髪も、きらびやかな着物も全く濡れているようには見えない。
薄くて見えないバリアで、全身が覆われているかのようだった。
実際そうなのだろう。
ぼくはイヤホンを両耳から外す。
人混みの中を歩くのではないというのもあったけど、昨日のさくらの口ぶりから、これから込み入ると思われる彼女の話を聞くのに、イヤホン着用は無礼だと考えたからだ。
「さくらはどうして鳥羽に行きたいと言ったの?いや、別に迷惑とかそんなことを思っているんじゃ全然なくて」
さくらが醸し出す重苦しい雰囲気に呑まれつつも、ぼくは会話の糸口を探る。
「歩きながら話そうかの」
さくらは、雨が降りしきる駅前の海岸沿いを、右に向かって歩きだす。
「言うなれば、墓参りかの」
「・・・さくらは、ここで親しい誰かを亡くしているの?」
ぼくはまだ、近しい人を亡くした経験はまだ無い。
だから、その気持ちが分かるよ。などと軽はずみで物は言えなかった。
けど、想像することは出来る。
もし母さんが予期せぬ事故や病気で命を落とせば、ぼくはきっと泣くだろう。
たったそれだけで、心がにわかに疼くのが把握出来た。
「人間ではない。わらわはこの地で愛しい神の者を無くしておるのじゃ」
「え?神様も亡くなるの?」
神様が、落命する?
神様って、永遠の代名詞じゃないの?
「それは神を過大評価しておるというものじゃ。それに、わらわは亡くなると言ったのではない。物が無いの無くなると言ったのじゃ」
「???」
ますます意味が分からなくなった。
難解なパズルを解きながら、同時に迷宮の中を進んでいるかのような気分がする。
「亡くなるのではなく、無くなるというのが正しいとわらわは考えておる。一度失われた存在が取り戻せなくなることはないとな。わらわはあやつをもう一度取り戻せると思うておるのじゃ」
「それは、その神様が蘇る可能性があると?」
亡くなると無くなるの違いと言われれば、前者はどれだけ手を尽くしても取り戻せないということだろうし、後者はやり方次第では取り戻せるということだろうか?
「そうじゃ。わらわたち神とは伝承されるものでもある・・・昨日、浦島太郎の話をしたな」
ずっと前を向いて話し続けていたさくらが、急にぼくに向き合った。
「確か、ぼくがさくらの神域を、竜宮城のようだと思ったことを看破された時だったよね?」
「浦島太郎の話を知らぬ日本人は、ほとんどおるまい」
「それは、そうだろうね。知らない人を探す方がよっぽど難しいと思うよ」
言い過ぎてはいないよな?
ぼくは、根拠の無い発言をしでかした自らに問いかける。
「別の言い方をすれば、浦島太郎の話はこれからも廃れることなく、語り継がれていくであろうということじゃ」
亡くなると無くなるの違い。
神とは伝承されるもの。
浦島太郎のおとぎ話が廃れることはない。
さくらの言わんとすることが、霞の向こうに見えてきた気がした。
「わらわはまだいい。わらわには、浦島太郎には到底及ばぬまでも、それなりに名の通った佐保姫の呼び名があるのじゃからな。しかし、お主らの子孫に語り継がれることも、伝承されることもない、人間の記憶から忘れ去られる一方の神々はどうなると思う・・・どうなったと、思う?」
さくらは一瞬だけ言葉を詰まらせる。
「それは・・・」
一体、どう答えればいいのだろう。
適当な言い方を思い浮かべられないぼくは、口をつぐむしか出来なかった。
「・・・消え去るのじゃよ。煙のようにな」
さくらは立ち止まり、辺りを見渡した後で太平洋に相対する。
「光景はまるで変わってしまったが、この辺じゃった。あやつがわらわの目の前で消えて無くなってしもうたのは・・・馬鹿なやつじゃったわい。自分のことだけを考えればいいものを。最後の最後まで残されるわらわのことを案じておった・・・」
ぼくはさくらの横顔を見た。
泣いているのかどうかは、見た目には土砂降りの雨に濡れているその顔からは判断出来ない。
波が次々と打ち寄せる音。
車がはね上げる水しぶきの音。
傘に大粒の雨が打ちつけられる音。
水に由来するそれらの音が重なりあって、沈黙しているぼくらを包みこむ。
「でも、何を根拠にさくらはその神様が蘇るかもしれないって思っているの?ぼくからすればとても信じられないのだけど・・・」
半ば耐えきれずに沈黙を破ったのはぼくからだった。
一度失われた命は取り戻せない。
生き物にとって常識以前の真理なのだから。
「それはそうじゃろうの。風太からしてみれば、わらわの言うとることは荒唐無稽じゃろうて。しかし、何の根拠もなく絵空事を口にしておる訳ではないぞ」
そう言ってさくらは、雨を従えているかのように再び歩き出す。
「神は、人間にその存在を認知されていれば、いる分だけ力が増すのじゃ。出来ることが多く、大きくなる。現代より認知されておった昔は、いまとは比べ物にならないくらいにわらわには力があった。じゃが、いまはその半分も出せるかどうか」
沿道の人達の声援が力になる。
さくらの発言を受けて、ぼくは以前テレビで耳にした、オリンピック女子マラソン選手の言葉を思い起こしていた。
「あやつの名が知れ渡ればあるいは・・・実証されておらんが故に画餅じゃが。これが根拠じゃ」
「だから神様の世界を、経済活動を例にとって説明したんだ。ぼくに神様を理解してもらうために」
頭の中で、ジグソーパズルのピースがきれいにはまっていく。
そういう事情があったのなら、あの説明にも頷ける。
頷けるけど、川の流れの先にいつか海があるように、ぼくは一つの懸念にたどり着いた。
「さくらは大丈夫?」
「ん?」
「さくらはその神様みたいにはならないのかってこと。そうなったら嫌だよ」
ぼくはいまこの時、どんな顔をしていたんだろう?
さくらは、そんなぼくの不安を取り払うかのように、本当に優しい笑顔を見せてから、続ける。
「・・・心配させてしまったようじゃな。確かに弱まっておるとは言ったが、そこまでの心配はせずともよい。あくまで浦島太郎に比べればの話よ。佐保姫の名はあちこちに残っておることだしの」
「そう・・・」
ぼくとしては、絶対に大丈夫との太鼓判を押してもらいたかったけど、それはぼくのわがままなのだろう。
嘘の従兄弟である知ったかぶりなど、ぼくだったら口にして欲しくないに決まっている。
「だからさくらは旅を続けているんだね。ぼくのような、神様を見ることが出来る人を探して、神様がいることを知ってもらうために」
「左様」
ぼくの言葉にさくらは頷く。
「それがわらわの使命じゃと思うておるが、使命とは己への強迫観念が形を変えたものじゃ。常にそんな心構えでおられるはずもないし、第一、楽しいはずがなかろう。じゃからわらわは美味い物を求めておるのじゃよ」
息抜きじゃ。と、灰色の海を眺めながら、さくらは脚を止めない。
「料理に金と手間がかけられておるから高級なのであって、さすればおのずと高い物には美味い物が多くなるということだからの」
それで高級志向だったのか。
単に食いしん坊だと思っていたさくらの一面は、自らの行動理念に裏打ちされていたことをぼくは知った。
「神様といえば、ぼくら人間を導くためだけにいるのだとばかり思っていたけど、人間みたいなこともするんだね」
「そりゃそうじゃ。日夜、修行に明け暮れておるとでも思っておったか。人間を導くのに人間を知らぬのでは話にならんのでな」
思っていた以上に神様には制約が多いというのも、法律や社会ルールなどにがんじがらめなぼくら人間を彷彿とさせる。
神様といえば、俗世のしがらみに捉われないものと思っていた。
「そのようなことは決してないぞ。わらわたち神より上位の存在もあるのだからの」
「神様より上があるの?」
「もちろんある。それは自然そのものじゃ。例えばわらわの力では直ちに雨を降り止ませることは出来ん。たとえ全盛期であったとしてもな。それが出来る神は知っておるがの」
さくらは小雨に右手のひらをかざす。
「逆に、その神に春を司る力はない。しかし、自然にはそれが両方とも可能じゃ。四季も気象も、大いなる自然の一部なのじゃからな・・・なんにせよ、久々に話したらすっきりしたわい。すまぬな。他愛のない話に最後まで付き合ってくれての」
さくらは沖合いの、雲の切れ間から光の筋がいくつも差し込む光景を背に、ぼくに微笑む。
どこが他愛のない話なのだろう。
けど、その笑顔を見ていたら何も言えなくなった。
わだかまっていたことを打ち明けることで、自分の心を軽くする。
その点においてもさくらは人間みたいだ。
「ぼくは何も・・・あれ」
ここでぼくは、雨がほぼ降り止んでいることに気がついた。
傘を頭上から取り払うも、雨粒はほとんど頭の上には落ちてこない。
さくらにかからないよう注意しながら水滴を振り払い、傘を畳む。
いつの間にか、濃い灰色の雲は東の空へと去りつつあって、西の空からは明るい雲が流れて来ていた。
青空も、雲の隙間からちらほらと見える。
「・・・いつか戻ってくるといいね。その神様」
光の筋が何本も重なって出来た陽光のカーテンが、海を煌めかせる。
それはあたかも、希望が明るく差し込んでいるようにも見えて、ぼくはそんなことを口にしていた。
「そうじゃな。戻ってきた暁には、首根っこ押さえてでも手放しはせん」
「お手柔らかにね」
いつものさくらが戻ってきたようで、ぼくは嬉しくなった。
「ふむ。風情があって良い。青く晴れ渡る志摩の海の光景もそれはそれで美しいのじゃが、こちらも引けをとっておらぬ」
さくらの言葉に、口に出すことなくぼくは同意する。
灰色だった雲が、目に見えない洗剤で徐々に漂白されていく。
天候が劇的に洗濯されていく様は、神秘的なまでの地球のダイナミズムに溢れている。
なるほど。
これを目にしては、さくらの力を持ってしても自然現象に及ばないというのも頷ける。
神様の力を上回るのなら、自然は人間の力など歯牙にもかけないだろう。
見当もつかないほどの水分量を蒸発させて雲を形作り、なおかつ長距離を移動させるなど、考えるまでもなく人間には不可能に決まっている。
ぼくとさくらは、人も神も圧倒する光景にしばらく見入っていた。
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