一日目 名古屋(その二)
名古屋市中区白川公園。
名古屋市科学館と同市美術館を敷地内に抱えるこの公園は、高速道路と幹線道路が隣接しているとは思えないほどに、闇をまとう静けさで溢れている。
夜を光の刃で切りとるのは街灯くらいのもので、時間帯のこともあって、人通りは少ない。
ここからそれなりの強度のある徒歩圏内に所在している、名古屋駅周辺や栄の喧騒とは無縁の空間が、二百万都市名古屋の中心部に存在していた。
閉館している科学館の前には日時計が設置されているけど、今日の仕事を終えて眠りに就いているかのように思えた。
日時計を挟んで反対側に科学館の建物が見えるベンチに、ぼくは座っている。
正直に言うと、酷く居心地は悪い。
クラシックコンサートの場のどこかで、一発芸を行うことが義務づけられているかのような気分だ。
左隣には、花柄のハンカチで両目尻を抑えている年上の女性が一人、腰かけているからだ。
彼女。ぼくの母親は泣いている。
ぼくに対してごめんねをしきりに繰り返しながら、止めどなく溢れてくる涙を拭い続けている。
おそらくは、ハンカチを絞れば水滴が滴り落ちるくらいには、彼女の涙を含んでいることだろう。
さくらはというと、ぼくらから少し離れた場所にある閉ざされた科学館のゲートの柵の外側。
その位置から同館の敷地の中で横たわっている、H-ⅡBロケットの一部をほぼ原寸の大きさに復元したレプリカの方を向いていた。
それは、さくらがぼくに着物の背中を見せる形となっていて、目に見えない文字で手助けはせぬ。と、そこに書かれているかのようだった。
前言どおり、さくらがぼくと彼女の仲を取り持ってくれるということは、現時点でなさそうだ。
なので人の心理に関して何の知識も持ち合わせてはいないぼくは、彼女が落ち着きを取り戻すまで、かゆいところをかけないまま待つしか出来なかった。
さくらに導かれ、いまから十分ほど前にぼくは、白川公園に隣接する歩道で彼女と、おそらくは十八年ぶりの再会を果たした。
あそこを歩いているのが風太の母親で間違いないとさくらに告げられたぼくは、わずかに躊躇った後で、もうどうにでもなれ!と言わんばかりに立ちふさがった。
左手に中身の詰まったエコバッグを提げていることから、スーパーなどからの買い物帰りと思われる彼女の前に。
「だ、誰ですか?」
「これを見て!」
突然の、不審な若い男の出現に恐れ慄く彼女の目の前で、ぼくは手にしていた懐中時計のふたの内側を見せつけた。
さくらが手助けしてくれない以上、彼女がすかさず大声で周囲に助けを求めようものなら、途端に厄介なことになる。
ぼくの一連の行動は、史上まれに見る素早さだった。
どこにこれだけの運動神経が隠されていたのだろうと、ぼく自身が他の何よりも驚いていた。
「あ、あ・・・ああっ。ごめんなさいっ。ごめんね、風太ぁ・・・わあああああっ」
ぼくが誰であるのかを理解した彼女は、エコバッグを歩道に落とし、その場で膝をついて泣き崩れた。
彼女は両手で顔を覆い隠す。
アクセル全開の号泣ぶりに、彼女のプライベート空間で話し合うというプランはあっけなく都会の露と消えた。
彼女の住まいを聞き出すことは不可能だと瞬断したぼくは、窮余の一策で白川公園のいま座っているベンチまで、なんとか彼女を連れて来たのである。
彼女が手放したエコバッグを持ちながら。
そして、いまに至る。
ぼくはイヤホンを外していた。
山ほどある言いたいことの中には辛辣なものも当然あったが、一片の嘘もなく泣き続ける彼女を前に、口に出して言えるはずもなかった。
痛みを知っているからこそ、人に優しく。
信じる道を踏み外したくはなかった。
やがて、彼女のしゃくりあげる声は小さくなっていく。
彼女が何の仕事をしているのかはもちろんぼくは知らないけど、明らかに全体的に痩せていて、どことなく顔色も悪く見え、お世辞にも健康的とは言えない。
隠しきれない疲労が滲んでいる。
いまは夜の九時近くであり、この時間に買い物帰りということは残業の多い不規則な仕事でもしているのだろうか?
中身は見ていなかったが、エコバッグの重さから鑑みるに、調理中に足りないものに気がついて買い足しに出たということでもなさそうだ。
「ごめんね。少しだけ落ち着けた」
「・・・・・・」
話せるようになった彼女の言葉に、ぼくは何も返さなかった。
何をどう切り出せばいいのか、分からなかったというのもある。
けど、なんでぼくの方からリードしてやらなければいけない?
と、実際に彼女と相対することで唐突に巻き起こった、積年の怒りとしか表現しようのない激情の嵐が心中で吹き荒れていた方が、その理由として圧倒的に強かった。
「そう、だよね。やっぱりあなたからすれば、私のことなんか許せるはず、ないよね」
涙声で彼女は言った。
ぼくは母親を彼女と称し、彼女は息子であるぼくをあなたと呼ぶ。
呼称の仕方がぼくと彼女の心の距離、関係性を何よりも物語っていた。
ごめんねと、この数分の中で何度口にしたか分からない言葉を発して彼女は、再びハンカチで目頭を抑える。
「・・・なんで、ぼくを捨てたの?」
とはいえ、いつまでも無言を貫いていては話が前に進まない。
おおよその答えは想像がついているが、何よりも最初に聞いておかなくてはならない問いで口火を切った。
「・・・怖かったからよ。赤ん坊だったあなたが泣く度に、室内だというのに強風が吹き荒れた。泣く回数も尋常ではなかった。その度にまた風が吹き荒れて・・・その繰り返しで心身共に疲れ果てたし、大学生だったから経済的にも苦しかった」
ぼくの泣く回数が多かったというのは、おそらく嘘の旋律が聞こえてきたからだろう。
いまのぼくでさえ耐え難いものがあるのだから、乳幼児であった頃ならばそれはどれくらいの苦痛であったことか。
結果が分かっていながらはめたような感じがして、若干の心苦しさがあった。
「いまは、何の仕事をしているの?」
「医者よ。名古屋の病院で救急救命医をしているわ」
「医者・・・年は?」
「三十八歳よ」
「そう・・・」
医者になるためには当然、大学の医学部を卒業しなければならないし、医師の国家試験に合格しなければならない。
学費の高さと、卒業するまでに六年もかかる経済的負担の重さから、ぼくは最初から医学部受験を視野に入れてはいなかった。
ぼくからすれば、とてつもない苦難を乗り越えてまで医者になった人が、なんで我が子を捨てるという行為に及べるのか?
彼女への疑念と怒りは、言葉が並んでいくごとに強くなっていく。
「ぼくが育った施設に捨てていったのには、何か訳でもあるの?」
「ないわ。赤ん坊を連れて大学に通えるはずもなく、自主退学するしかなかった。途方に暮れたわ。子育てなんてもちろん未経験だったし、二人の人間を養うだけの経済力は無かった・・・それもあって、私は・・・」
「なんだよ、それ」
ぼくの心に、ぼくは自らの手によってナパーム弾を投下させる。
憤怒の司令官の命に従って。
信じる道が一瞬で炎に包まれる。
「医者になる大変さはぼくには全く分からないよ。なってからの大変さも。だからあなたがこれまで苦しい思いをしてきたのは確かだと思う。けど、それならどうして、苦労することの厳しさを人一倍知っているはずのあなたが、どうして自分の子供にしなくてもいい苦労を押しつけられるの?」
ぼくの怒声を聞きつけたさくらが、科学館のゲート前でこちらの方に向き直るのが横目で見えた。
けど、そこまでで、距離を詰める素振りはない。
「あなたが言ったように、赤ん坊を連れた状態でありながら医学生で居られるはずもないし、勉強のブランクが長いのに医学部に入れるとも思えない。つまり、あなたはぼくを捨てた後でのうのうと、罪を償うことなく医大に入ったことになる」
かつてないほどの怒りで思考が停止し、視野偏狭だったぼくは、ぼくを捨ててからの彼女の人生を一方的に決めつける。その上で、ストーリーに沿って感情にまみれた台詞を吐露していた。
「え?もしかして聞かされていないの?」
彼女は、はっとした後で、初めてぼくの目をしっかりと見つめたのだ。
「十八年前、私はあなたを捨てたすぐ後で自首したのよ」
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