一日目 名古屋(その三)
「え?」
「知っているものと思っていたから言わなかったのだけど。それか、自首したくらいではやっぱり許してもらえないのかなと思ってた・・・」
自首した?しかも十八年前に?
激情で加熱していた心に、晴天の液体窒素が降り注ぐ。
心頭滅却どころではない冷めかただ。
一瞬で真昼のサハラ砂漠から厳冬の南極大陸に移されたかのように。
我が子を捨てるのは、保護責任者遺棄罪という正真正銘の犯罪行為だ。
幸いにも、ぼくは大事に至る前に施設の職員の人が発見し、保護してくれたから良かったものの、そうならずに命を落としていたら遺棄致死罪と更に罪が重くなってしまう。
致死罪に至る前の咎。
それだけでも、ぼくが今日しでかした未成年の飲酒とは比べ物にならないくらいの、桁違いに重い罪である。
ぼくが捨てられた事件では警察が動いていたと、何かの折りに院長先生が語っていたことはいまでも覚えている。
しかし、彼女が自首したということを、いまのいままでぼくは、小耳にも挟むことなく生きてきた。
警察の犯罪捜査における決めごとを、ぼくはもちろん知るよしもない。
それでも、捜査過程の情報が入ってこない理由は、常識の範疇で考えつくし、理解も可能だ。
けど、事件の犯人であるこの人が自首して逮捕されたというのなら、その情報は被害者であるところのぼくにもたらされるべき類いのものではないのか?
未成年にはそういった情報を報せないという、警察内部のルールでもあるのか?
それとも・・・
「裁判では執行猶予がつくことなく実刑を言い渡された。当然よね。完全に故意なのだから。あなたからすれば偽善にしか聞こえないでしょうけど、服役した頃から贖罪のために医者になろうと考えた。あなたを捨てたことをいまでも悔やんでいるし、人を救うことで罪滅ぼしをしようと決めたから」
「出所してから医大に入った・・・」
魂を根元から刈り取られたような感じがした。
「私が出所したのが二十五歳の時で、一年後に医大に入学出来た。そして医師になれたのが三十二歳の時」
彼女は、星か瞬くことのない夜空を遠い目で見上げる。
嘘の兆候は未だに聞こえてこない。
静けさが逆に耳に障る。
ぼくはこの時、初めて嘘が聞こえてきて欲しいとさえ願ってしまった。
その方がまだましに思えた。
「そんな・・・」
罪を償うための場所なのだから、刑務所での生活が楽であるはずがないし、その中で医大に入学するための勉強に邁進し、出所後一年で合格する。
その努力が、並大抵のものであるはずがない。
「再婚とかは・・・」
彼女をなじる口実を。宙ぶらりんの怒りを発散させるための理由を探しているも同然だった。
ここまで来ると、最低の極みだ。
「していないわ」
彼女は頭を左右する。
「本当にその時が来るとは思っていなかったけど、もし、あなたが私の前に現れるようなことがあった場合、叶うことならもう一度やり直したいと思っていたから。その障害になりそうなものを作りたくはなかった」
「じゃあ、ぼくが一生会いにこなかったとしたら・・・」
「ええ。その時は、私は生涯一人身ね」
窮屈そうな自嘲の笑顔を浮かべる彼女。
ぼくには、その片鱗しか伺い知ることはできないけど、彼女が過ごしたこの十八年間は、施設の先生たちや仲間たちに恵まれていたぼくの人生よりもずっと辛くて苦しくて、冷たいものであったことだろう。
なのに、しっかりと罪を償った彼女に、知らなかったとはいえ、ぼくは感情に流されるがままに古傷が刻まれた彼女の心を更に傷つけてしまった。
「ぼくは、なんてことをあなたに・・・」
掠れる声で言った後で、ぼくの左頬を一筋の涙が伝う。
苛烈な自責の念に飲み込まれようとしていたその時だった。
「大丈夫よ」
優しい動きの手がぼくの頭をぐい、と抱き寄せる。
「大丈夫。あなたは何も悪くない。全ては私のせい。あなたが言ったことも私が撒いたこと。自分がしたことは全て自分で責任をとるわ。だから、あなたは何も悪くないの。泣くことなんてないのよ」
ぼくは温かいと思った。
我が子をあやすその手も、言葉も。
心の暴発という過ちを許されたのだと思った。
救急車のサイレンが鳴り響く。
すぐ近くの消防署から聞こえてきた。
職業柄か、彼女はその音に反応するもぼくを抱く姿勢は変わらない。
変わらず温かいままだ。
なら、次はぼくの番だ。
彼女が、心の海で溺れるぼくに救いの手を差しのべたように、ぼくも彼女の心に・・・
科学館のゲート柵の方を見ると、優しい微笑みを浮かべて僕らを見つめているさくらの姿があった。
その笑顔がぼくを後押しする。
「・・・母さん」
「あ・・・こんな私でも母さんと呼んでくれるんだ・・・」
「・・・いいよ」
嬉しそうな顔を覗かせた後で、寂しげに曇り、俯く母さんの顔を見てぼくはその心中を察した。
「ぼくのことを名前で呼んでも」
ぼくは母さんが抱いているだろう願いを叶えてあげたいと思った。
それが、ぼくがいま出来る償いだから。
「本当に、いいの?」
「本当に、いいよ」
「・・・ありがとう。風太」
通行人は、散発的に絶えることがない。
しかし、その誰もが、涙ながらに顔を寄せ合うぼくらの方に目を向けることなく、一人で足早に。あるいは、大人数でゆっくりと公園内を通り抜けていく。
その理由を、もちろんぼくは知っている。
当の本神は、今度は通路を挟んでロケットレプリカの反対側に鎮座している、蒸気機関車と電気機関車を眺めていた。
「ごめんね。いまになってようやくこうしてやれて」
これが母の愛というものだろうか?
気がつけば涙は止まっていたが、ぼくは母さんの温かさがくれる安らぎを、具体的な言葉に置き換えて理解することが出来なかった。
理解出来たのは、この温かさをずっと感じていたいという、ぼく自身の気持ちだけ。
だからこそ、ここで双方の過去は水に流さなくてはならない。
そう強く思った。
「いいよ。もう終わったことなんだし。罪もしっかり償ったんだから、そんなに謝らないでよ。そんなんじゃ、ぼくがずっと根に持っているみたいじゃないか」
「あ、そうね。ごめ・・・風太はいま何処で何をしているの?」
「名古屋の大学に通っているよ。下宿も市内」
「そ、そうなんだ。名古屋で暮らしていたんだ・・・」
驚きながら言う母さんの口調には、まだまだぼくに対する引け目が含まれているように感じられた。
やらかしたことを思えば無理もない。
十八年の間に積み重なってきた、罪悪感などの堆積物がほんの数分で取り除かれるはずもない。
その作業は、これから時間をかけて取り組まないと。
ぼくと母さんの二人で。
「でも、知らず知らずのうちに同じ街に住んでいたとはいえ、どうして風太は私に会いに来ることが出来たの?」
母さんからすれば当然かつ不可解な疑問だろう。
写真は一枚もなく、名前も分からない。
五十嵐姓が本当だという証拠もない。
難しい探し物をすることの例えとして、砂漠の中で一本の針を探すようなもの。というフレーズ。
今回の件ではそれの頭に、世界の何処の砂漠かも分からないがつくようなものだ。
人間が実現可能な行為をとっくに逸脱し、超越している。
「それは・・・」
神様に導かれて来たなんて、信じてもらえるのかどうか。
それでも、こうして人間離れしたことをやってのけている以上は、本当のことを説明しない訳にもいかない。
嘘が大嫌いなくせに、嘘をつくなど、どうして出来るというのか。
どれだけ荒唐無稽であろうとも。
「・・・今日、旅先で出会った神様に案内されて来たんだ」
言っている本人が大嘘つきではないかと疑心暗鬼に陥りかねない発言だったが、
「信じるわ」
返答は斜め上を行くものだった。
母さんの顔は真顔だった。
「信じるって、何を?」
「だから、神様に案内されたって話。私にはその神様は見えないけど、信じるわ。そうでないとあり得ないことだもの」
言っていることが、にわかに理解出来なかった。
「その顔は何でって顔ね。大丈夫。気がふれた訳じゃないわ。さっきから通行人の人たちが明らかに普通の状態でない私たちを、一瞥もせずに通過していくもの。いくらなんでもおかしいと思うわよ。それに、私にはその不思議を受け入れる下地があるから。それは風太にも関係していることよ」
「ぼくにも関係している・・・」
そのまま解釈するなら、ぼくと同様に母さんにも人智を超越した現象に対する免疫が備わっていることになる・・・そりゃそうか。
風を吹かすぼくの力の一つを母さんは知っていることになるんだし。いくらか冷静であれば、人通りの奇異にも気がつくだろう。
ようやくぼくの思考は現実に追いつく。
「それはね。あなたの父親が・・・」
「その先は言わないで!」
言いにくそうに口を開いた、母さんの言葉をぼくは遮った。
「その先は、ぼく自身で見て確かめたい。そのためにぼくは神様と旅をしている。次は京都に行って来るよ。京都にぼくの父である人がいると聞いたから。だから会いに行く。会って話を聞く」
「そう・・・」
俯く母さんの顔には、様々な思いが渦巻いているのが見てとれた。
母さんと父である人との間で、決して小さくない確執があったのかもしれない。
「疑っていた訳じゃないけど、本当に神様がいるのね。私が彼と出会ったのは京都だった。あの人は・・・」
母さんは、父である人を恨んでいるというより、恐れているように見えた。
「大丈夫だって。ぼくの父がどんな人であったとしても、神様がついてくれているんだから」
「うん。心配なのもあるけど、本当に馬鹿なことをしたと思って。風太の成長を見届けずに生きてきたことを。本当に馬鹿なことをしたと思って・・・」
母さんは堪えきれずに頬を濡らす。
「母さん・・・」
「これは私のエゴだけど、正直なところ京都には行ってほしくない。せっかく再会出来たのだから。でも、私なんかに引きとめる資格なんてないし、例えあったとしても無理そうだから。だから、いまは見送ることにするわ。可愛い子には旅をさせよって言うしね」
母さんは、自分の涙で湿ったハンカチで涙を拭き取った。
「でも、許されるのなら一つだけ・・・無事に帰って来て」
「分かっているよ。帰ってきたその時は、その、一緒に暮らしたいから。施設の先生や仲間たちも大事だけど、やっぱり母親は母さん一人しかいないから。ぼくは当たり前の暮らしに憧れてた。だから、そのためにも帰って来るよ」
「風太・・・ありがとう。こんな私を許してくれて」
ようやく母さんは、ずっと下ろせなかった荷を下ろすことが出来たのだろう。
心からのそれと分かる、安堵の表情を浮かべた。
新たに涙は零れてこない。
「・・・これからぼくが聞くことは、母さんを傷つけるはず。だから、言っていいかを聞いておくよ。嫌なら、言わない」
「・・・いいわ。何を、聞くの?」
「ぼくの父である人に、言っておきたいことある?あるなら伝えておくよ」
「・・・・・・」
押し黙る母さんの言葉を待つ。
「・・・なら一つだけ。私に、風太を授けてくれてありがとうございます。とだけ伝えておいてくれる」
「他には?」
「無いわ。それだけ」
次の言葉は出てこなかった。
「必ず伝えるよ」
「それと、これも私の代わりに神様に伝えておいてくれる。風太と私を引き会わせてくれて、本当に感謝していますということと、この先も風太のことを宜しくお願いしますということを。見えてもいないのに言うのもおかしいから」
「うん、分かっ・・・」
ぼくの言葉を遮るのがその目的であるかのように、ひらひら舞い落ちてくる、何十枚もの桜の花びら。
公園内に花を咲かせる桜の木は、一本も見当たらない。
「わぁ・・・」
母さんはベンチから腰を上げ、見惚れる。
タイミング的に、季節外れの桜花の雪には母さんへの返答の意味が込められているのは間違いない。
奇跡の現象は、ぼくら以外に見えていないようだ。
通行人は花びらに一切目をくれず、過ぎ去って行く一方だ。
ぼくは座ったまま、この演出を手掛けた舞台監督に目を向けた。
さくらはいつの間にか、科学館のゲート前からぼくたちのすぐ近く、日時計の場所まで移動してきていて、無言で日時計を眺めながらその回りを歩いていた。
ぼくは心の中で、ありがとうとだけ呟く。
手出しはしないんじゃなかったっけ?と、後で言ったところで、はて?なんのことじゃろうかの。などと、とぼけられるだけだろうしね。
「話の分かる神様なのね。良かった」
母さんは、ほっと一息をついた・・・危ない危ない。大事なことを忘れるところだった。
「聞くのを忘れていたけど、母さんの名前はなんて言うの?」
「美歩よ。美しいに歩くと書いて五十嵐美歩。名前負けもいいところだけどね」
「そんなことないよ。そんなことない」
気持ちをうまく言葉に出来なかったぼくは、そんなことしか言えなかったが、気持ちは伝わったようだ。
「うん。すぐには無理でも、これからは誇れる人生を歩まないと。ようやくあなたとやり直せる機会を掴めたのだから。もう二度と手放さないわ・・・いますぐ京都に発つの?」
「そのつもり。気持ちの整理もつけたいから、もう行くことにするよ・・・・・・これ、ぼくのスマホの番号」
繋がりを持たせた方が母さんは安心するだろうと思ったぼくは、スマホを操作して自分の番号を表示させ、母さんに見せた。
「・・・・・・登録したから、後でワンコールだけするね・・・行ってらっしゃい。風太」
「うん。じゃあ、行ってくる」
ぼくは母さんに背を向けて歩き出した。
痛いくらいの視線を感じながら。
「良かったのか?」
僕の右横からさくらが問いかける。
「何が?」
「一晩だけでも母親と一緒にいなくて良いのかという意味じゃ」
「いいんだよ。いま母さんと一晩でも一緒にいたら決意が鈍りそうだから」
「ま、お主がそう言うのならいいんじゃがの・・・気持ちの整理をつけたいと言っておったな」
「言ったけど・・・」
「ならば、今夜は部屋に帰らずわらわの庵に来るがよい」
「・・・おねがいするよ。出来るだけ静かな場所で考えたいから」
「心得た。ならば善は急げじゃ」
さくらの右手が伸びた次の瞬間、四方八方から桜花の奔流がぼくらを包みこむ。
母さんの視線を全く感じなくなった。
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