一日目 名古屋(その一)

 乗り継ぎを含めて名古屋駅から地下鉄で五駅移動し、そこから夜道を十分ほど歩いたところに、いまのぼくの住まいがある。


 「ここが風太の家か」


 興味深そうにさくらは、古びた二階建てアパートを見上げた。


 帰省なのか?旅行なのか?

 幹線道路から二筋ほど離れた周囲の家屋に目を向けると、灯りがついている家とついていない家の割合。

 明らかに普段とは比率が変わっているように思える。


 街灯が道を照らす。

 ついていない家の灯りを補うかのように。


 「この中の一室だけどね。そう遠くない場所にぼくの通っているキャンパスがあるから結構便利なんだ」


 エレベーターの無い、二階建て合計十部屋の何の変哲もない、何処にでもあるようなアパートである。


 合法的な入居者であるぼくは、このアパートの何処にそんなに目を引く箇所があるのだろうと不思議に思いながらも、一階の真ん中付近にあって二階の右端へと繋がる外づけ階段を上がって一番近い部屋へとさくらを案内した。


 鍵を開けたその先はぼくの聖域だ。

 誰がなんと言おうとも。


 ぼくは、一日中耳につけていたイヤホンを軽いため息とともに外した。

 苦痛から解放されたささやかな幸福感が、蝶々のようにひらひらと舞い降りてくる。


 他人の声が聞こえてこなかったら、ざらついた響きの嘘も聞こえてくる心配がない。


 ここはぼくにとって、真に安らげる場所。

 大都会砂漠の中のオアシスなのである。


 「ここが風太の部屋か」


 さくらがぼくの部屋の中を好奇心に満ちた目で見渡す。


 常識的な人間だったら誰だってそうだろうけど、ぼくはこれまで面倒事やトラブルの類いを出来る限り避けてきた。


 その行動理念は部屋の中にも、如実に表れていると思う。


 「何というか、殺風景じゃのう」


 全床板張りの六畳の部屋の中にある物と言えば、プラスチックの簡素なたんす。四本脚の食卓兼勉強机。背もたれつきの座椅子だけである。


 ゲーム機はおろか、テレビすら無いぼくの部屋は、自分でも殺風景だと思っている。


 ぼくの娯楽の手段である読書。

 小説を中心とする書籍は、押し入れのラックの中でぼくに選び出されるその時を待っている。


 殺風景だがある意味、個性的な部屋の中を隅々まで見つめられれば、整理整頓が行き届き、やましいところが無かったとしても恥ずかしくなってくる。


 「さくらが気にいるかどうかは分からないけど・・・」

 「む?」


さくらの視線からプライベートを守ることも目的に窓際に立つと、窓をふさいでいた厚手のカーテンを一気に引き開けた。

 マジックを披露するマジシャンよろしく。


 「おおーっ」

 カーテンが引かれた途端、さくらは目を煌めかせながら感嘆の声を上げる。


 窓の側まで歩み寄り、広げた両のひらとおでこをガラスに押し当てた。


 「特等席ではないか。上から見た眺めも宝石をちりばめたようにきれいじゃったが、ここから仰ぎ見るのも実に良いではないか。全ての窓が光っていないのが残念じゃが、夜空に向かってそびえ立つ幾つもの柱みたいなのじゃ」


 なるほど。

 さくらの例えにぼくは感心する。


 夜空を支えるかのように、ぽつぽつと窓から光を放つ柱と化した何本もの高層ビルは、堂々と名古屋の大地に立っていた。


 名古屋で二番目に高いセントラルタワーズからの夜景に見入っていた時と全く同じ佇まいを見せるさくらに、ぼくは名古屋駅に着いたその足でレストランに案内して良かったと改めて思った。


 母との面会次第では、食べるどころではなかったかもしれないからである。


 「美味いひまつぶし・・・もとい。ひつまぶしもあそこらで食わせてもろうたし。上からも下からも眺めが良しときておる。言うことなしじゃな」


 ぼくらが食べた名古屋グルメはひつまぶし。

 名古屋駅周辺のレストランで頂いた。


 味噌煮込みうどんや名古屋コーチンなど、幾つかある郷土料理の中からひつまぶしを選んだのは、そういえば最近は魚を食べていないな。と思ったからだ。


 刺身なりフライなり。スーパーで出来合いの物を買うと値が張るし、一尾のまま買ったとしてもそれを捌く包丁も、上手く調理出来る自信もない。


 なので、名古屋に来てからというもの、ぼくは魚料理を数えるほどしか口にしてこなかった。

 さくらも異論がなかったので、夕食はひつまぶしになった。


 飛騨牛ステーキの件から分かった、食に関しては高級志向であるさくらの意に添うように、ぼくは特上を注文した。


 分かっておるではないか。と、さくらは言った。


 しばらくの後に店員さんが届けてくれた、黒い角盆の上の品々。

 一見すると鰻重か丼にも見えるが、それらと違うのは、最初の一杯はそのまま。二杯目はわさびなどの薬味を添えて。三杯目はお茶漬けと、一度で三度も趣向を変えて味を楽しめる点にある。


 味以外で印象に残っているのは、またもさくらだった。


 箸を使ってお茶漬けを直接口の中に流し込むという、およそ姫神様とは思えない食べ方を見せたさくらの姿は、食いしん坊のキャラクターが漫画から抜け出たかのようだった。


 値段が四千円と、八百円のラーメンの五倍あるがゆえに、ぼくはしっかりとひつまぶしを味わった。


 その後でセントラルタワーズの上層階から名古屋の夜景を眺めてから、ぼくのアパートへとさくらを連れてきたのである。


 「しかし、よくこの部屋に入ることが出来たのう。この景観の良さじゃ。人気はありそうに見えるが」


 「このアパートは利便性から、ぼくが通っている大学の学生御用達みたいなところがあるからね。ぼくはいち早く推薦で入学することが出来たから、一般入試の人たちよりも早く契約することが出来たんだ。丁度、前の入居者の人が卒業するから、部屋を出ることも重なったんだ。ラッキーだったよ」


 「そうじゃのう。幸運じゃったというのも確かにあるが、半分以上は風太が長きに渡って努力を積み重ねてきたからじゃな。誇りに思うことじゃ」


 「そう、かな・・・」

 ぼくは自信なく目線を落とす。


 「ふむ。お主は自分のこととなると急に自信を無くすのう。分かりやすい奴じゃ」


 さくらの言葉にぼくは何も返せなかった。

 それどころか、全てが看破された気さえした。


 「・・・月にむら雲、花に風ということわざがあるが、その意味、大学生のお主ならもちろん知っていような?」


 少しだけ思案してから、半月が浮かぶ夜空を見上げながらさくらは言った。

 さりげなくハードルを上げておいて。


 「えっと・・・風情あるものや美しいものには邪魔が入りやすいという意味だったよね?」


 「それであっておる」

 「でも、何でいきなりそんなことを?」


 「この世は一つの考え方で成り立っておる訳ではないことを、風太に教えておこうと思っての」


 「一つの考え方で成り立っている訳ではない・・・」


 一つしかない頭でぼくは考える。


 この地球上には七十億もの人類がいるばかりか、それ以外の陸海空全ての生物を含めれば、その総数は無限大と言っても過言ではないだろう。


 人ひとりの想像が及ぶはずもない、実に壮大すぎる話だ。


 それぞれに多かれ少なかれ自我が存在するのだから、さくらの発した言葉は完膚なきまでに正しいことまでは分かる。


 分からないのは、そのことがいまのぼくにどう関係するのかということだ。


 「・・・・・・」


 無言で頭を捻るも、答えのようなものはちっとも水面に浮かんではこない。

 釣れる兆しが感じられない。


 「自分で考えて、気がついて初めて自らのものになるのじゃからの。焦らずにじっくりと己に向き合ってみよ。わらわからの宿題じゃ・・・脇道にそれてしまったな。母親に会うために欠かせない物を取りに来たと言っておったが、それは何なのじゃ?」


 「あ、それは・・・」

 ここに来た目的を思い出したぼくは、押入れの扉を引き開けた。


 本が収められたラックの奥に置かれていた段ボール箱を、両手を伸ばして掴む。


 重たい物は入っていないので、あんまり力のないぼくでも軽々と持ち上げ床に置き、ふたを開けた。


 「この中に入れてあるものなんだけど」


 箱の中に手を入れて、しまってあったビニール袋からチェーンのついた金色の懐中時計を僕は取り出した。


 「それがそうなのか?」

 「うん。院長先生がぼくと一緒に残されていたと言っていた、ぼくの名前が書かれている時計だよ」


 時計のふたを開けると、すでに時計としての用を成していない、三本の針が停止して久しい内側をさくらに見せた。


 極細のサインペンで、この子は五十嵐風太と、小さくもしっかりと記されている。


 「この時計と一緒にぼくを捨てていったのが誰なのかは分からない。けど、気がつく数時間前に乳幼児を抱いた若い女の人が施設の付近を歩き回っていたと、警察の人が言っていたらしいから多分間違いないと思う」


 ぼくを捨てる時、母は何を思っていたのだろう?


 本人を問いたださない限り、答えにたどりつけるはずのない問いだと理解しながらも、ぼくは問うた。


 もちろん、答えを見出だせずに終わる。


 「いずれにしても、何も持たずに行っても証明出来ないからね・・・これまで何度も捨てようかと考えたよ。ここに持ってこようかどうかも本当に悩んだ」


 自身のルーツをたどる、唯一の手がかりである時計のふたを閉じた。


 出来ることならこんな風に簡単にふたで閉ざしてしまいたい、形ある過去がこれからの未来の道しるべとなっている。


 なんの因果なのか?

 あまりの皮肉に、鼻で苦笑する。


 「それだけなのか?取りに来た物は」

 「これだけ。他にはないよ」


 「・・・言っておくが、わらわは案内するだけじゃ。母親と会うてからは風太が全てを決めるのじゃぞ。よほどのことが起こらん限り、わらわは手出しせぬ」


 よほどのこと・・・

 ぼくはそれについて、これ以上は深く考えないことにした。


 「ん、心の準備も整っておるようじゃし、行くとするかの」

 「お願いするよ。さくら」

 「任せよ」


 さくらが外に出たのを確認してから、ぼくは部屋の明かりを消し。靴を履き。ドアを閉めてドアノブに鍵を差し込む。


 次にここに戻ってくる時、ぼくはどんな気持ちで、どんな思いでこの扉を開けることになるのだろう?


 良い気分で開けられたらいいな。


 ぼくは施錠して、鍵がかかっていることを確認した。

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