2-9 彼女と親友
部屋に入って一番に窓を開け放つ。すると風が吹き込んできて、リリーナの前髪を揺らした。
その風をしばし堪能した後、使用済みのシーツを引きはがし、籠の中に放り込む。用意していた新しいシーツをしき、ベッドを整える。忘れ物は無いか確認したあと、部屋を一通り掃き掃除をして、窓などは丁寧に吹き上げる。
宿屋での仕事はこういった作業を毎日永遠と繰り返す。
面倒くさがりやのリリーナは、こういった仕事が好きではなかった。彼女が宿を手伝っているのは、単に母のレーナを放っておけないからである。もっと生まれ育った環境が違い、母レーナが何の仕事もしていない人だったら、わざわざ宿屋で働きたいとは思わなかったに違いない。
しかしながら面倒くさがりやであるからこそいいこともある。リリーナはその気質ゆえに効率の悪い作業が嫌いである。いつでも最小限の労力で最大の成果を生み出すことをかんがえているのだ。
そのためリリーナ・ファルクという人間はよく仕事ができた。たとえ仕事に対してそこまでの熱意がなくとも、仕事ができれば信頼はされる。
宿に雇われている人間も、リリーナの面倒くさがり屋な気質には気づいていたが、仕事はできるため、比較的よい人間関係を築けていた。
「さて、と。洗濯はあの子に任せるし、次は食堂かな」
カーラッカでリフルテシアの毒に倒れてから十日。体調は完璧に回復し、宿の仕事にも復帰している。
レーナは特にリリーナの仕事を減らすわけでもなく、いつものように娘に仕事を手伝わせている。
しかしながら、ふとした時にレーナがリリーナを見ていたり、客室の掃除ばかりしていてレーナの前に姿を見せないと、わざわざ食堂の方から抜け出してきてリリーナの様子をうかがったりしているのに、リリーナは気づいていた。
心配しているのはレーナだけではない。何故かアシュレイも時間は決まっていないが毎日やってきていた。アシュレイは魔道騎士としての仕事があるはずなのだが、何度尋ねても大丈夫としか言わない。
リリーナとしては彼らの反応は過剰すぎると感じているのだが、周囲はそうは思っていなかった。むしろ、面倒くさがり屋のわりに面倒事を呼び起こすこの娘を、いつなんどきでも見張っていたい気分だったのだ。
「リリーナさん」
「あら、マリカじゃない。どうしたの?」
食堂に向かおうとしたリリーナに声をかけてきたのは、この食堂でバイトをしている少女マリカだった。彼女は学生で、カーラッカにある学校に通っている。魔力はないが、勉学は優秀で、バイトをこなしながらも器用に学生生活を両立させているようだった。
「レーナさんがリリーナさんを呼んでくるようにって。たぶん、さっき下に来てた紅い髪の可愛い人がらみだと思いますけど」
「ユリアだわ! すぐいく」
食堂へ向かう速度を速め、リリーナは心持ち高揚した気分で階段をかけおりた。リリーナに会いに来る紅い髪の女は、学生時代からの親友であるユリアしかいない。
恋人と結婚し、幸せな新婚生活を謳歌しているユリアは、今はアルヴァの町から離れてしまっている。そのためリリーナは以前ほど頻繁にはユリアに会えないのだ。
はやる気持ちを押え、食堂に出る直前で足を止める。宿屋の看板娘として、お客様方に失礼がないようにする配慮は必要だ。
あわただしく見えないように、ごく自然な風を装って、リリーナは食堂に足を踏み入れた。
「早いわね。仕事、休憩でいいから。ユリアと話してきなさい」
「ありがとう」
レーナの気遣いに感謝しながら、リリーナはユリアの座っている席に急ぐ。
宿屋の食堂としてはそれなりの広さがあるこの場所で、ユリアはとても目立っていた。
彼女は、プルシア王国では珍しい、紅い髪ふんわりとした細い髪を持っていた。その髪は太陽の光を浴びると、宝石の如く輝いてみる者を惹きつける。
ふんわりとした髪と同じく、雰囲気もふんわりとした可愛い彼女は、誰もが一度は付き合ってみたい女であろう。いつもにこにことしていて、そのくしゃりとした笑顔が、男心を鷲掴みにするのだ。
「久しぶり。来てくれたのね」
少しうつむいて座っていたユリアに声をかけて、リリーナは真正面の椅子に座った。
「……ねえリリーナ」
すっとあげられた視線。
「私に何か言うことはないの?」
その視線に射抜かれて、ぞくりと背筋が凍る。
周りから見れば、ユリアは穢れを知らぬ無垢な女性に見えるだろう。その微笑むさまはまるで天使のように慈愛に満ちている、ように見える。しかし彼女の紅い目は笑っていなかった。付き合いの長いリリーナにはそれが即座に分かった。
「十日前に毒で倒れて、私がそのことを知ったのは今日の朝。ねえ、どういうことなの?」
声は高すぎず、しかしほどよい甘さをはらむ。しかしその声にわずかに非難の色がうかがえるのは、付き合いが長いからだろうか。
おそらくユリアに告げ口したのはアシュレイだ。全く余計なことをしてくれた。
「えっと――」
「――私いつも言ってるよね?」
どうにか犯人を割り出そうとしたリリーナの言葉を、ユリアは容赦なく遮った。こうやって畳み掛けるときは相当怒っている時だ。
「何かあったら連絡してって。
ユリアの夫ニルスは薬師である。それと同時に魔道にも精通しており、魔道学校時代はリリーナと筆記試験の首位の座を争っていた。もっとも、リリーナが筆記試験を真面目に受け始めたのは、学校生活の後半からなので、首位争いもその時からだが。
「どうして連絡してくれなかったの?」
「いや……それは……」
面倒だったから、の一言に尽きるが、それを正直に言えばユリアが激怒することも分かる。それはさらに面倒な事態だ。
「面倒だったのね。顔に書いてある」
しかしながらそんなリリーナの考えは見抜かれていたらしい。ユリアは何故か先ほど以上に笑みを深め、しかし眼光だけを強めて、話を続けた。
「ニルスはネジュリアの花があったのは奇跡だって言ってたよ。それに、運よくナウマン博士がいたことも! あと、ティルダさんからもらった魔法具がなかったら、アシュレイが間に合わなかったんだって――」
「――ちょっと待って! 誰から聞いたの? アシュレイじゃないの?」
とりあえず話を全て聞いてしまおうとリリーナは思っていた。しかし、話の内容がアシュレイすら知りえないであろうものが混ざっていたため、思わず話を止める。
「エーヴェルトさんよ」
「エーヴェルト? 会ったの?」
「そうなの。珍しいよね、エーヴェルトさんがシスクにいるなんて。私、アルヴァの町以外で初めて会ったの」
宿の常連客かつ、情報屋である眼鏡の男を思い浮かべる。アルヴァの町はおろか、リリーナはいまだかつて宿以外の場所で彼を見かけたことがない。
しかしそれはユリアには言わないことに決めた。なんとなく、それはリリーナに対してだけの彼のルールな気がしたからだ。おそらく父親としての愛情。
巻き込まない気なら拠点になどしなければいいのにと思ったこともあるが、今まで実害がなかったのは、そういう気遣いの積み重ね故かもしれない。
「それで、エーヴェルトが私の名前を出したの?」
「ううん……ただ“月”の御嬢さんがね、って言われたのよ」
「“月”?」
「たぶん、リリーナの髪色からじゃないかな?」
はっとして、自分の髪を手で掬った。癖のない髪はすぐに零れ落ちるが、視界の端に銀色を捉えた。
そして目の前にいる女性のかがやく紅い髪が目に入る。
リリーナの記憶の中に、そっとよびかけるものがある。いつであったか、そんなような呼ばれ方をしたのだ。
「太陽と月。私とリリーナのあの頃の呼び名よね」
「ああ……そっか学校のときのか」
同級生たちの間でひそかに言われていた、太陽と月という呼び名。決して自分たちの目の前で呼ばれることのなかった呼び名だが、アシュレイを通してその話を聞いたのだ。
「懐かしい。……って、待って。まさかそこから来てるわけじゃないわよね? 単に魔道学校の生徒と同じ発想だったってことよね?」
「エーヴェルトさんだからねえ……?」
いくら情報屋といえども、学校でのくだらない噂話まで熟知しているとは思いたくない。確かにエーヴェルトには知らないことはないのではないかと錯覚するぐらい、彼は物知りだが、娘の学生生活に関する情報まで収集していたとは信じがたい。
ユリアはもしかしたら在りえるかも、とつぶやいているが、リリーナは首を横に振っておいた。
そして彼女の怒りのほとぼりが冷めたようなので、紅茶を薦めようと口を開きかけた時だった。
「それで、そう、リリーナの話ね。私に心配かけたんだから、もちろん全部説明してくれるよね?」
いつものリリーナだったら、間違いなく面倒だから嫌と切り捨てていただろう。
ある程度の事情をすでにしっているユリアに、過ぎたことを話すのは無駄なことに思えるからである。
しかしさすがのリリーナも、ユリアの微笑みには白旗を上げざるを得なかった。
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