2-8 誤解は解けた
「あいつが私に頭を下げるなんて、ね……」
声がどこから聞こえている。
体は不思議と軽く、どこかふわふわと漂っているようだ。視界はぼんやりと白く、そこにある影が、女性を象っているようにも見える。
細かい表情はわからないが、穏やかに微笑んでいる、そんな風にも見えた。
「あら、目が覚めたかしら?」
洞窟の中で反響する音のように、どこかこもっていて、現実味のない声に、リリーナはうまく反応できなかった。
「もう少し寝ていた方がいいわ」
ふと視界から光が消え、そのかわり目元に柔らかな熱を感じた。
「早く元気になって」
夢かうつつか、声は聞こえているけれど、どこかはっきりとしない。あいまいな世界にただとどまるリリーナの意識は、覚醒に至らない。
「あなたはアシュレイにとって――だから」
耳に届いた名前に、リリーナの意識は焦りのようなものを感じて浮上しかけた。雲をつかむように、つかめないものを求めるかのように手を伸ばそうとして、しかし今のリリーナにそれは叶わない。
「ありがとう」
それは魔法のようだった。
その言葉が聞こえると同時に体が一気に弛緩する。
リリーナが夢の世界に引き込まれるのに、一秒とかからなかった。
眩しい。朝日がさんさんと降り注ぐ部屋は、壁紙が白いため余計に光を反射して部屋の光度をあげている。
そこでふとリリーナは何かがおかしいことに気づいた。
南向きの家に住むリリーナは、朝日によって目が覚めるという経験があまりない。リリーナの部屋は角部屋なので窓が南以外にもあるのだが、西側なので差し込むならば朝日ではなく夕日だ。
「え!」
すばやく上半身を起こすと、慌てて周りを見回した。
白い壁紙の貼られた部屋には、小さめのテーブルとイスが一つずつと、クローゼット、それからリリーナの寝ているふかふかのベッドしか置かれていない。
ベッドは窓からは少し離しておいてあり、部屋の大部分を占めている。
「病院……?」
うまく回らない頭で考えたところ、どうやらここが病院であるらしいことはわかった。
そして記憶をたどる。
「あの花……!」
黄色い花を燃やしたら、体中がマヒしてしまい、それをアシュレイに助け出されたのだ・
そしてナウマンに会ったあたりから記憶が曖昧になってしまう。思い出そうと考えてみるのだが頭が痛くなってしまうのだ。
眠っていた間、妙にリアルな夢を見ていたような気もする。女性の話し声や雰囲気をなんとなく覚えているのだ。
とりあえずベッドから降りようと布団を避けて、靴を探す。
その時、ふと自分の服装に目が留まり、リリーナはあることに気づく。自分の服が先ほどとは違い、伸縮性の高い大きめのワンピースになっていた。どうやら誰かが着替えさせてくれたようだ。働くときに邪魔だからと後ろで一つにくくっていた髪も、ほどかれている。
長い銀髪を右肩の方に全て流し、ワンピースを手で軽く整えたあと、ベッドの淵に手をついて、ベッドから身を乗り出すようにして靴を探す。
その時扉が開く音がして、とっさのことに動けなかったリリーナは、ベッドの上で四つん這いになって下を見ている状態のまま、顔だけを扉の方に向けた。
扉を開けて入ってきたのは黒髪に青年だった。深い緑色の瞳がまんまるくなり、そして何かに気づいたようにすっと細められる。
「おい、何してるんだよ! 病人はおとなしく寝てろ!」
いつもならアシュレイが怒鳴るのを聞き流して、すんなりと体を起こしただろう。しかしアシュレイの言う通り“病人”であるリリーナには、それができなかった。
ベッドの端についていた手がそのまま滑り落ち、その勢いで体がベッドの下へと投げ出される。
視界に床が近づいてくるのを確認すると同時に、受け身を取ろうとしたリリーナは、自分の身体が中途半端な状態で静止していることに気づいた。
「馬鹿。もっと自分の身体のことを理解しろよ」
ぐいっと後ろから体を引き上げられ、そのままベッドに降ろされる。いらだった粗雑な言葉とは裏腹に、リリーナを扱う手はひどく優しかった。
ベッドの上に上がったリリーナは、思わずアシュレイの顔をじっと見つめてしまう。さらりとした黒髪に、バランスの良く整った顔。中でも切れ長の目は印象的で、それがアシュレイの雰囲気を冷たいものにしている。
実際、女嫌いのアシュレイはその目で彼女たちを冷たくあしらうことが多いのだが、リリーナと向かい合っているときは、ちゃんと温かみを持っていることもある。
一番多いのは怒りなど激情の炎なのだが、今のアシュレイはとても不思議な目をしていた。
怒りや苛立ちもあるにはあるが、不安や恐怖そして安堵の色がうかがえる。
「っ……どうしたんだよ」
何故かきまり悪そうに視線を反らしたアシュレイは、耳が赤い。
「いや、なんか、何を怖がって何に安心してるのかなって」
ふと気づくとリリーナは無意識のうちにアシュレイの腕を掴んでしまっていたらしい。しかも瞳を覗きこんでいたから、かなり至近距離に踏み込んでしまっていたようだ。
アシュレイの同様に意味に思い当たったリリーナはすっと手を引いて、ベッドに戻る。腕が自由になったアシュレイは、一度リリーナの方を見た後、ためいきをついてベッドの横で両膝をつき、ベッドに手をかける。
「教えてやるよ」
自分が数秒前に問いかけたことも忘れて、驚いた顔をするリリーナに、今度はアシュレイがその腕を掴んで彼女を引き寄せた。
「お前が目覚めるか不安で、もう目覚めてても麻痺が残ってるんじゃないか怖くて、でも元気そうだから安心してるんだよ」
掴まれた左腕が熱い。腕を掴む力強さと、声色、表情、そのすべてが、アシュレイの言葉が本音であることを示している。
館長室から飛び出してきた理由を思い出したリリーナは、そのことにひどく動揺した。
アシュレイの言葉はまるでリリーナが大切であるように聞こえる。あの瞬間を目撃していなければ、リリーナはアシュレイの言葉を素直に受け取っただろう。
彼からの好意をリリーナは感じていたし、それがうぬぼれでもないと思っていた。しかし女嫌いのアシュレイが、胸の大きな猫目のかわいらしい女性に抱き着かれているのを見たとき、一つの可能性に思い当たったのだ。
アシュレイは確かにリリーナを大切に思っているだろう。学生時代のある事件をきっかけに、なんだかんだと言いながらリリーナを窮地から助けてくれるのはアシュレイだった。
女嫌いのアシュレイにとっては、数少ない心許せる女だったことは間違いない。しかしアシュレイの好意は、友達としてだったのではないか、それはリリーナが抱いているこの感情とは似て非なるものだ。
そして、リリーナには確信があった。アシュレイ・ラルセンという人間は、決して自分が認めない女に抱き着かれたりはしない。それを逆手にとって考えてみれば、アシュレイはあの女性を好いており、あの状況を受け入れていたということになる。
「リリーナ?」
あまりにも無反応なリリーナを不審に思ったアシュレイが、少しだけ顔をリリーナに近づけて問いかける。
その仕草は、端から見れば、倒れた恋人を心配する男に見えなくもないだろう。
しかしこれがリリーナをただの友達だと思っていての行動であれば、この男はかなりの罪作りだ。
「アシュレイ……あなた、意外とたらしだったのね」
「……は?」
真意を問うように目を細めたアシュレイに、リリーナはわざと大きくため息をついて見せた。
「女嫌いだと思ってたけど、いや、女嫌いには変わりない? 天然なの、それ?」
「ちょっと待て。どうしてそうなる?」
「説明するのは面倒だから無理」
「そこでその悪癖を持ち出すなよ!」
取りつく島もないリリーナにアシュレイが苛立ちの声を上げた時だった。
「ちょっと、病人に対してもっと配慮なさいよ」
病室に入ってきたのは、大きな胸が目につく猫目の女性だ。
さきほどは目に入らなかったが、髪色はアシュレイと同じ黒で、瞳の色もまた黒色だった。薄手の長袖のブラウスに長いスカートを着ていて、服装は清楚な雰囲気なのだが、彼女のめりはりの付きすぎた身体によって過剰な色気が漏れている。
「ミーシャか。ノックぐらいしろ」
「したわ。あなたたちがぜんっぜん周りに注意を向けていないからでしょう?」
ミーシャと呼ばれた女性は、すたすたとベッドに近づいてくると、アシュレイを押しのけるようにしてリリーナの額に手をあてる。
「熱は無いみたい」
「あなたは……?」
「私? ミーシャ・ラルセンよ。リリーナ・ファルクさん」
「ラルセン?」
ミーシャの言った姓名に、リリーナは固まった。アシュレイに兄弟がいるという話は聞いたことがない。
「やだ、どうしてそんなに驚いてるの?」
「あなた、アシュレイの彼女じゃないの?」
どこかからかうような口調で問いかけたミーシャは、リリーナの言葉に目を見開いた。そしてアシュレイの方に視線をやる。
リリーナもまたそれにならってアシュレイの方を向くと、アシュレイは驚愕と嫌悪の混ざった複雑な表情でこちらを見た。
「あり得ない!」
一言一句違わず、コンマ一秒たりともずれずに、二人は叫んだ。
そのあまりの揃い用に、さすが血のつながりがあると違うと、リリーナは少しずれた感想を抱いていた。
「やっぱりさっき部屋を出て行ったのはそれが原因なんだな! この馬鹿が抱き着いて来たりするから!」
ここが病室だということも忘れて、アシュレイは力の限りさけぶ。本来ならそれをいさめるべき立場にあるミーシャも、冷静さを失っていた。
「あら、嫌なら避ければいいでしょう?」
「あの猛進を避けられる男はいない!」
「はんっ! トロワの名が泣くわね!」
犬と猿が対峙するかのように、互いに威嚇し合っている二人をいさめるように、リリーナは疑問をさしはさんだ。
「すると……二人の関係は?」
「従妹だよ。こんなのと血がつながっているのもぞっとするが、これを彼女にしようと思う馬鹿だとリリーナに思われていることのほうがぞっとするな」
「なんですって!?」
その後、二人は叫び疲れるまで互いを罵ったあと、リリーナが誤解しないようにと、二人が付き合っているということは在りえないという話を何度もしてみせた。
ミーシャがあのように抱き着くに至る会話なども全て聞かされて、リリーナは納得すると同時に、さきほどよりも少しだけ穏やかな気持ちを取り戻したのだった。
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