2-7 彼と従妹
「リリーナ?」
腕の中にいるリリーナが心なしか重くなった気がして、アシュレイは彼女に声をかける。
リリーナの顔はアシュレイの胸のほうに寄りかかっているので、アシュレイからはその表情は見えない。
「意識がなくなったのかい?」
「おそらく」
足を止めることも、振り返ることもせずにナウマンは問いかけてくる。
ナウマンは、淡い杏色の少し長めの髪は癖を持ってうねっており、顔立ちもあまりはっきりとしていないので、一見のんびりした男性に見える。
しかし彼がその気になれば、驚くほど俊敏に動けるのだということをアシュレイは今になって実感していた。
普段ならば問題はなかったが、リリーナを抱えている状態では、ナウマンの早足について行くのがやっとだった。
「意識がない、か……」
アシュレイはナウマンがカーラッカにいることを知っていた。
アルノルド・ナウマンはプルシア王国が誇る天才科学者だった。彼の専門分野は魔道そのものだ。しかし一般的には、魔法具を使用した道具を発明する科学者として有名だった。
そのことは有名であるため、植物に関してはナウマンの専門ではないと分かっていたが、今この町でリリーナを救える可能性があるのは彼だけだと思い、彼女を連れてきたのだ。
ナウマンは歩みを止めることなく、すいすいと魔道学校の敷地内を進んでいく。アシュレイはかつてここに通っていただけあり、ナウマンの歩いていく方向でなんとなく目的地は推察できた。
「まずいな。……進行が早い」
「リフルテシアについて研究されたことが?」
「……ああ。リフルテシアという花は、人の魔力を吸って毒を生成する。僕の研究範囲とまったく違うということもないのさ」
「魔力を吸って? ということは、まさか、魔力を持つものがいない国では……」
「無害な花さ。プルシアではリフルテシアは全面的に輸入を禁じられているが、もう少し南にある魔力保持者がいない国では、普通にそこら辺の道で咲いている。まあ、もちろん気温的な問題もあって、プルシアでリフルテシアを育てるのは難しいけど」
ようやくナウマンが立ち止まったのは、アシュレイの予想通り、王立魔道学校の敷地内に存在する、大きな植物園だった。
巨大なビニールハウスがいくつも並ぶ中で、ナウマンは迷わずにそのうちの一つを選んで入っていく。
それぞれのビニールハウスの中の気温は、魔法具によってコントロールされており、この仕組みを作ってあらゆる季節の植物を一年中作れるようにしたのは、このナウマンその人だった。
「こっち」
促されるままにビニールハウスに入ると、思わず身震いするほどの冷気が顔に触れて、アシュレイは目を丸くした。
きっちりとした魔法騎士団の制服を着ているアシュレイは、夏の終わりにしては少し暑苦しいくらいの格好だったが、それでも寒い。
吐く息は白く、一歩歩けば霜が踏まれて砕ける音がした。よく見てみると、盛ってある土も白みがかって固くなっているようだ。
「ファルク君をここへ。女性を土の上に寝かせるのは忍びないが、今は贅沢を言っていられないだろう」
ナウマンが指したのは、ビニールハウスの端にある、土をただ平らにならしてあるだけの場所だった。
他に場所はないかとアシュレイも見回してみるが、そこが一番ましであるようだ。
目覚めたら服が土だらけだったら、リリーナが怒るかもしれない。ふとそんなことが頭をよぎったが、こういう事態ではしかたがない。
できるだけ彼女の身体に負担が無いようにゆっくりとリリーナを地面に降ろす。そして自身の制服の上着を脱ぎ、彼女にかけてやる。
そしてようやく見たリリーナの顔は、さきほどよりも青ざめていた。唇も頬も赤みを失っており、彼女から生が遠ざかっているような印象を覚えて、アシュレイの鼓動が早まる。
「ああ。できるだけ急いでくれ」
ふと声が聞こえて顔をあげると、ナウマンがビニールハウスに設置されていた|風便(テレフォネ)を使っているのが見えた。
ナウマンの腰ほどまでの大きな箱のようにも見えるそれは、風音石という特別な石を使った魔法具の一種だ。|風便(テレフォネ)と呼ばれるそれは、音を他の風便(テレフォネ)に届けることができるのだ。魔力によって反応するため、使用者の魔力が音を受信する側の風便(テレフォネ)に一度触れているという条件は付くが、国内であれば、どれだけ離れていても効力を発揮するため、とても便利なものである。
「さて、我々ができることをしようか」
「誰に|風便(テレフォネ)を……?」
「僕が信頼している薬師だよ。近くにいるからすぐに来るさ」
ナウマンはすっとリリーナに近づき、彼女の首に触れて目を閉じる。
「脈が弱い」
脈を取ったあと、立ち上がった彼は、近くにあった植物に近づき、ナウマンはそれをてきぱきと摘み取っていく。
ナウマンが手にしているのはほとんどが葉の部分だが、その中には白い花弁をつけたものも混ざっていた。
「それは……?」
「ネジュリアと呼ばれる、雪国に咲く花だ。これもリフルテシアと同じく魔力に反応するんだが、これはリフルテシアとは逆で、毒素を分解する成分を作る」
再びリリーナの側に戻ってきたナウマンは、アシュレイに先ほど彼が摘み取った草花の半分の量を手渡した。
「これを凍らせてほしい」
「燃やすのではなく?」
「炎に相対する物は氷だろう? 毒が炎からできるなら、薬は氷から作るのさ」
理屈になっているのかは分からないが、アシュレイはナウマンを信じるしかない。ナウマンからネジュリアを受け取った。
「それをファルク君の上にかざして、凍らしてくれればいい。僕の魔力よりも、君の魔力の方が強いからね」
「……わかりました」
アシュレイは受け取った草花を掴んだまま、その手をリリーナの胸のあたりに突き出した。そして手首を反して、ゆっくりと指を開く。
手のひらの上に載った草花をじっと観察し、そしてアシュレイは小さく息を吸った。
「|変われ(ションジェ)」
草花に宿る水の一つ一つを氷にする。細胞の中に存在する水分を全て固形化するつもりでアシュレイは魔力を使う。
アシュレイの手のひらの上にあった草花は一瞬のうちに白くなり、アシュレイの手のひらが急激に冷たくなった。そしてすべての水が氷に変わった時、音を立てて氷がはじけ飛ぶ。
粉々になった氷は、小さな粒としてリリーナに降り注ぐのかと思いきや、アシュレイが瞬きする間に蒼い光となって、リリーナに降り注いだ。
アシュレイが手のひらをゆっくりと傾けていくと、そこから水が零れ落ちていくように、さらさらと光が踊る。
「これは……」
光はリリーナに触れると同時にはじけるように消え、その光を浴びるたびに彼女の肌が色を取り戻していく。
白に近かった頬は赤みを取戻し、紫がかっていた唇も淡いピンク色に戻っている。なにより、リリーナの表情が和らいで、胸元の上下も確認できるようになった。
「どうやら間に合ったようだ」
「よかった……」
その場に膝を付いたアシュレイはそっとリリーナの手に触れる。するとリリーナの手がアシュレイの手を握り返した。
はっとしてリリーナの顔を見るが、その美しい瞳は閉ざされたままだ。無意識のうちの行動なのだろう。
「手も握れているようだし……これ以上は専門家じゃないとわからないな」
ナウマンは手に持っている草花に視線をやって、苦笑した。アシュレイにはその意味がわからず、その意味を問うように目を細めて見せる。
「ネジュリアは確かに毒素を分解する。しかし効き目が強すぎて、分解しなくていいものまで分解してしまうことがあるんだ。だから、細かい微調整は薬師じゃないと無理なんだよ」
「それは……つまり今の状態では麻痺が完治しているかはわからないということですか?」
「ああ。だからさっき呼んだんだ、彼女をね」
「お待たせしました……ってアシュレイ?」
聞き覚えのありすぎる声にはっとして振り返ると、そこには猫目と胸の大きさの印象的な女性が立っていた。
「ミーシャ。彼女がリフルテシアの毒を浴びた患者だ。初期治療は施したが、細かいところは君に任せる」
アシュレイはよく忘れそうになるが、ミーシャはそれなりに腕の利く
「はい」
長いスカートが地に着くのもいとわずに、ミーシャはリリーナの側にしゃがみこみ、そうしてからアシュレイの方に顔を向けた。
「で、彼女リリーナ・ファルクよね? 誤解は解けたの?」
「解く前にこの状態だ」
今さらながら、リリーナがあの場から立ち去る原因となった出来事を思い出してアシュレイは顔をしかめた。
もとはと言えばミーシャの行動が原因なのだ。彼女が抱き着いてくるから、リリーナはミーシャがアシュレイの恋人だとでも思ったのだろう。その誤解を解くために、ミーシャを振り切って図書館の館長室を飛び出した。
しかしそもそもミーシャがあんな行動を起こさなければ、リリーナが一人で外に出ていくこともなく、リフルテシアの毒を受けることもなかっただろう。
そう考えてしまうとミーシャに恨み言の一つや二つも言いたくなる。普段のアシュレイだったら間違いなく彼女を責めていただろう。
「……リリーナを頼む」
しかしアシュレイはそう言った全ての感情を封じて、素直にミーシャに頭を下げた。
今のミーシャは従妹より何より薬師である。ここでアシュレイとの無駄な口論に時間を割くぐらいなら、一刻でもはやくリリーナを診てほしい。人としてはともかく、薬師としてのミーシャは認めているのだ。
アシュレイのプライドも、ミーシャに対する恨みつらみも、リリーナの前では無意味だった。
「! 任せなさい」
ミーシャは驚いたように小さく息をのんだ。しかし返答はしっかりとした声だった。おそらくそれは彼女の職業的反射なのだろう。
アシュレイもまた、彼女にしては珍しくからかいのニュアンスを含まないその言葉に驚いていた。
そんなアシュレイの思惑を読み取ったかのようにミーシャは言った。
「あなたの大切な人の命、預かるわ」
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