2-6 リフルテシア


 耳に届く高い音。

 それは炎がうねる音でも、リリーナの服が爆ぜる音でもなかった。

 頭に直接響くような、済んだ鈴のような音が心を揺らす。

 その音は、すべてを諦めて目を閉じたリリーナの目を開けさせた。

「え」

 眼前に迫る炎。赤い透明な揺らめきは先ほどよりも迫り、肌に触れる熱気が、女の本気を示していた。

 それは目を閉じる前とあまり変わらない状況だった。しかし、一点だけ大きく違うところがある。

その炎からリリーナを守るようにして、光の柱が、空に向かって立ち上っていたのだ。

 しかし、それは完全なものではない。炎の進行を遅らせてはいるものの、激しい炎の勢いに押されて、炎にあたった部分から順に崩れ落ちていく。

 はたから見れば、それはわずか数秒のできごと。しかしその一瞬は、リリーナの運命を大きく左右した。

「すべての命の源、静まれば己を映す鏡となり、荒ぶれば我らを打ち消すものよ。Construisez形を成せ!」

 地をうならせるような轟音と共に、大量の水がリリーナの目の前に降り注ぐ。それは易々と炎を飲みこみ、その術者までにも襲い掛かる。

 驚異的な水量だが、それはリリーナの髪の毛一本すら濡らすことはなく、ただリリーナを守る透明な壁としてあり続けた。

「アシュレイ……」

「リリーナ!」

 後ろを振り向かずとも、それが誰なのか分かる。そもそも、さきほどの魔法は上級魔法の中でも、さらに高度な魔法だ。威力をあげるだけなら魔力さえ強ければ誰にでも可能だが、対象をしっかりとしぼるのは相当の技術を要する。

 自分が助かった段階で、彼が助けに来たのだとリリーナは確信していた。

「大丈夫か!?」

 思考は冷静でも、体に強いていた緊張はよほどのものだったらしい。

 身の危険が去り、最も気を許せる男が側にいるためか、リリーナの体の力は一気に抜けて、ぐらりと上体が傾く。

 それを危なげなく抱きとめたのは、アシュレイだった。

 ほどよく鍛えられた腕はしっかりと、それでいて優しくリリーナを抱きとめる。

「逃げられたか」

 リリーナの耳元でつぶやかれた言葉には、悔しさと苛立ちが混ざっていた。どうやら女には逃げられたらしい。

 水の壁もいつのまにかなくなっており、人通りの少ない静かな通りに戻っている。

「何をされたんだ?魔法の類じゃないだろ?」

「は、な、もや、した」

 事情を説明しようとして、上手く言葉を話せないことに気づく。

 どうやら体中に麻痺の症状がでているらしい。あきらかに先ほどより悪化している。

「花を燃やしたのか?それ、何色だった?」

「き、いろ。まりょ、く、きえ、た」

「魔力も奪う毒花、リフルテシアか。この国ではそうそう手に入るものじゃないんだけどな」

 どうやら彼はその花に心当たりがあるようだ。物憂げな顔をした後、至極申し訳なさそうな顔をして、リリーナの顔を覗き込んだ。

「遅くなって、悪かった」

 深い緑色の瞳には、驚いた顔をした女性の姿が写り込んでいる。自分はそんな顔をしているのかと思うより先に、瞳に映る自分の姿を見つめられるほどに近い距離感が気まずい。

 そもそもリリーナがあの場所から離れた原因を思い出して、リリーナは思わずアシュレイから視線を外す。

 すると、リリーナを抱きしめる腕からアシュレイの震えが伝わってきた。その意味を問おうとして、しかしそれは叶わなかった。

 アシュレイの腕に先ほどよりも無遠慮に力がこめられ、リリーナの自由を奪ったのだ。

 まるで子供が気に入ったおもちゃを離したくないかのような抱きしめられて、リリーナは何故かほっとしていた。

 それは、リリーナの無事を安心していることの表れに思えたからだ。

「悪かったよ。これでも必死だったんだからな」

「あり、がと」

おそらくアシュレイは先ほどリリーナが視線を反らした本当の意味を分かってはいないだろう。しかし今はそれを伝えるだけの気力はなかった。

「とりあえず、解毒剤が要るな」

アシュレイのつぶやきが聞こえたと同時に、リリーナの身体がふわりと浮いた。

アシュレイの腕がひざ裏と背中にしっかりとまわり、リリーナの身体を抱き上げたからだ。

「そのままじっとしてろ」

 アシュレイが歩くたびに体がわずかに揺れる。しばらくの間、おとなしく身を預けていたが、途中でリリーナはあることに気づいた。

「……ど、して」

「ん?」

「かぜ、かりて、ないの?」

 アシュレイはリリーナを抱き上げるのに、風の力を借りていなかった。ある程度の技量と集中力は必要とするが、魔道騎士団のトロワの位についている男がそんな簡単な魔法が扱えないわけがない。

「使えなくないけど……」

 ふいと視線を前に戻してつぶやくアシュレイの顔は、何故かわずかに赤い。

 理由を問い返してみようかとも思ったが、きっと話す気はないだろうと思いなおして小さく首を振る。

 体力のあるときならばいいが、今その押し問答をするのは少々面倒だ。

 それに話す気がないということは、何かしらの理由は存在しているということだ。アシュレイが考えてその結論を出したのなら、リリーナはそれに従うべきだろう。

「ラルセン君……? それに、ファルク君じゃないか! 一体何があったんだい?」

 二人に話しかけてくる人物の声が、昔どこかで聞いたことのあるような声な気がして、リリーナは記憶の中を探る。

 首を動かして顔を見るのもつらいので、声で判断しようとしたのだ。しかしリリーナが記憶の中からその人物を探り当てるより先に、アシュレイがその答えを教えてくれた。

「ナウマン教授! あなたにお会いできてよかった! リフルテシアの解毒剤について何かご存知ありませんか?」

 リリーナが王立魔道学校に通っていた時に、彼女を高等学校に推薦した研究者だ。何故彼が学生都市であるカーラッカにいるのかは分からないが、アシュレイはもともと彼がここにいることを分かっている様子だった。

「リフルテシア? なんでそんなものが! いや、とにかく解毒剤が先か。ついてきなさい」

「はい」

 さきほどよりもわずかに早い足音がリリーナの耳に届く。アシュレイが歩く速度をあげたのだろう。

 一定のリズムで揺れるアシュレイの腕の中で、ふとリリーナはあることを思い出す。

 昔ナウマンに熱烈に研究助手としてスカウトされていた時、一度だけ彼の仕事ぶりを目にする機会があった。

 人あたりが良さそうで、のんきそうな男性だと思っていたのに、研究所内で動き回る彼は想像を裏切って俊敏だった。歩くのも人一倍早く、彼の助手はほとんど走るような速さで彼を追いかけていた気がする。

 ふとその時のことを思い出すと、何故か口元が引きつった。どうやら笑みがこぼれそうになって、しかし体がそれについていかなかったらしい。

 笑みも作れないほどに麻痺が進行しているらしい。これは昔の思い出に浸って笑っている場合ではなさそうだ。

 それに先ほどから不思議なほど音がしない。

 少し前までは聞こえていた足音も、耳のそばを通り抜ける風の音も、二人の話声すらも聞こえてこない。

 不思議に思って視線を上げようとしたが、そこでようやく瞼が重く、どんどん閉じてきてしまっていることに気づいた。

 どうやら思考すらも緩慢になってきているらしい。

「――」

 何かがリリーナの耳に届いたような気がする。

 しかし、すでにリリーナの目の前には、果てのない暗闇が広がっており、その空間を占めるのは、自分の吐息すらも聞こえない、音のない世界だったのだ。

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