2-5 焦りはミスを生む
王立図書館の館長室の扉の前に、リリーナは立っていた。いつもならば、軽くノックすれば返事がある。しかし今日は何やら部屋の中で男女の話し声が聞こえていた。
ここが間違いなく館長室であることを確かめてから、とりあえず扉を開けてみることにした。
そろそろと静かに扉を開けて、中を伺う。
「あ」
そこにいたのは、一組の男女。女の方が男に抱きついており、リリーナの声に二人が顔だけこちらを向けた。
女性は、豊かな胸と大きな猫目が特徴的なかわいらしい人だった。
男性は、切れ長の目と整った顔立ちが印象的なアシュレイだった。
リリーナは、ほぼ反射的に扉を閉めて、館長室を後にする。後ろから何か声が聞こえたような気がするが、面倒なので放っておく。
本来の目的は、アシュレイにティルダの作った魔法具を渡すことだ。しかしあの女性の前でこれを渡せば、面倒なことになるのは目に見えている。ティルダには早く渡してほしいと言われたが、今日渡さなくとも良いだろう。走りはしないが、迷うことなく階段を降りて、図書館の外に出る。
見上げた空は赤く染まり、たなびく雲は灰色だった。
買い物袋と、魔法具の入ったカバンが、行きよりも重たく思える。今日はなんてついていない日なんだろう、とリリーナは柄にもなくそんなことを思った。
「ああいうのが好みなの」
ぽつりと漏れた独り言は、誰に聞かれることもなく風に消えていく。しかし言葉に出さずにはいられなかった。アシュレイが自分に対して、恋愛感情を抱いていないのだったら、リリーナは何をする気もなかった。誰かと競い合うのは面倒で嫌いなのだ。たとえ競うものがアシュレイだとしても変わらない。
そういう意味では、アシュレイとリリーナの関係はいつだってアシュレイに決定権がある。アシュレイがリリーナとよき友人であることを望むのならば、リリーナはそれに従うだろう。
それは今と変わらない関係。
満足できるはずだ。リリーナはそう思った。
それならばあの場から逃げ出す必要はなかったのだが、リリーナはそれには気づけない。
「お嬢さん」
声をかけられてリリーナは一瞬で現実に引き戻された。
考え事に没頭していたリリーナは、今自分がどこにいるのかさえも分かっていなかった。いつのまにか、人通りの少ない広い道を選んで歩いていたようだ。駅の方向とは反対方向であるのは、アシュレイに渡すものがあるという潜在意識だろうか。
「どうされました?」
声をかけてきたのは、白髪で腰の曲がったお年寄りの女性だった。彼女は布に包まれた何かを腕いっぱいに抱えている。
前髪は長く、顔にかぶっていてその表情は見えない。
「ちょっとこれを持ってくれないかい」
中身は見えないが、布の荷物を指して老婆は言った。
めんどくさがり屋のリリーナだが、こういう助けを必要としている人を放っておくことはできない。不用心だのなんだのとアシュレイに怒られるが、危険はないだろう。
「いいですよ。どこまで運びますか?」
老婆は腰が曲がっているし、こちらに対して害意も見えない。だからリリーナはそうやって尋ねながら、深く考えずに荷物を受けとってしまった。しかしその重さが妙に軽いことに違和感を覚え顔を上げる。
「ばかだね」
顔を上げたリリーナは、自分の不注意を呪った。
腰の曲がっていたはずの老婆が、すっと背筋をのばす。前髪によって隠されていたその目は、それは穏やかな老婆のものではなく、羊を狩る鷹のような目だった。
「
老婆、否、老婆に扮装していた女の手の中にある石が紅く光る。
それが魔力をためておけるタイプの魔法具だと認識すると同時に、リリーナを巻き込むようにして炎が渦巻いた。
リリーナは老婆に渡された荷物を持ったまま、とっさに地面を蹴り、後ろに下がって炎を躱す。
後ろに跳んだ衝撃で、荷物を覆っていた布がはらりと宙に舞う。しばし宙を漂った後、女の放った炎にのまれ、端から一瞬にして灰になっていく。
布の中身は黄色い花びらで、それはすでにリリーナが後ろに跳んだ勢いでいくつか手から離れていた。花びらは炎に吸い寄せられるようにして飛んでいき、次々に燃え上がり、黄色い光を散らした。
「最悪」
リリーナは軽く舌打ちをして、買い物した袋を手放した。炎にまかれ燃えていく新品の日用品は惜しいが、この状況では両手を自由に使えないことの方がマイナスだ。
宿屋のための買い物は後でもう一度し直せばいい。
ティルダから預かった魔法具を入れているカバンは、幸いなことに斜め掛けのカバンであったので、それを後ろにすばやく回した。
「|Venez(来い)」
そしてリリーナは迷わず基本詠唱で水をよび、自分と女の生み出した炎の間に水で壁を作りあげる。リリーナよりも少し高いくらいの水の壁は、炎とぶつかりうなりを上げた。
透明な赤の炎と青い水は、混ざり合うことはなく反発し合って、その境界線に光を散らす。
揺らぐ水と炎の向こうに、女が妖しげな笑みを浮かべているのが目に入った。
「基本詠唱も、正しく使えばそのくらいの威力は発揮するのか。ただの宿屋の娘にしてはやるじゃないか」
「……あんた、誰?」
意識を水の壁からそらさないようにしつつも、女の言葉の意味を咀嚼する。
”ただの”と付けているところを見ると、宿屋の実情は知らないように見えるが、リリーナ・ファルクという人間だということは分かっているようだ。
自分の出自がばれているということは、無作為ではなく、リリーナ自身が狙われていたということになる。
宿が何であるかがばれていないだけ最悪の事態とは言い難いが、リリーナにとって面倒事が起きていることに変わりはない。
「私が誰かって? お前さんが気になるのはそこかい?」
「そうね。むしろ、どうやって私が私だと分かったのか、聞きたいわね」
「さあ……? お前さんがまだ動けるなら、話してやってもいいけどねえ」
「え」
視界が急にぶれた。意識の削がれた水の壁はわずかに小さくなる。
膝に熱を感じて、ようやくリリーナは自分が膝をついているということに気づいた。何故か足に力が入らない。
「まさか……さっきの花」
「勘がいいね。花を燃やすと体を麻痺させる毒になるんだよ。少量じゃ問題ないが、あの量を至近距離で吸えば、当然効果がでる」
体の自由と魔法は別物だ。意識を保てていて、集中さえ持てば、魔力が枯渇するまで魔法を扱うことはできる。
理論上はそうであるはずだった。
「なん、で」
しかしリリーナの水の壁はゆっくりと炎の壁に浸食されていく。
石畳を伝わる熱の量が増し、リリーナの練り上げた水の壁が押されているのを肌で感じる。
自分の魔力が弱まっている。そう確信したのは、女の勝ち誇ったような表情を見た時だった。
「花を燃やしたのはお前の判断ミスだね。燃やしさえしなければ、もっと手こずっただろうに」
炎が水を完全に巻き込み、リリーナを守るものは無くなった。
どうやら女はリリーナを殺す気のようだ。
足が使えないため、逃げることはできない。すでに腕も重たくなり、魔力を練れるだけの時間もない。
リリーナは抵抗を諦めて、目を閉じた。
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