1-4 報酬
アルヴァの一番街中にある宿屋は、ファルク夫人という未亡人が経営する宿屋だった。彼女には一人娘がおり、その名はリリーナ・ファルク。
母娘は比較的珍しい美しい銀髪を持っている。その美しくも儚げな容貌から、月の女神だなんだと言われており、彼女たちの宿はひそかに女神の宿と言われているのだ。
夜も更けて月が明るく輝くころ、宿の扉の開閉を告げるベルを鳴らしたのは、この宿の娘だった。
「リリーナ。どうしたの?」
「ちょっと疲れた」
リリーナの母親であるレーナは、リリーナと同じく美しい銀髪をきれいに結い上げている。その顔立ちは、やはり美人だがきつい顔ではなく、どこか儚さのある美女だった。歳を重ねているためか、リリーナよりも艶がある。
母親としては若々しい彼女は、この宿が繁盛する秘訣だとひそかにリリーナは感じていた。
「帳簿の計算が終わってないから、とりあえず座って」
レーナは帳簿をそのままにして、扉の外側に受付終了の札を下げる。時間的にももとよりそうする気だったのだろうが、リリーナに対する配慮でもあるのだろう。
リリーナはとりあえず受けつけに一番近いところにある椅子に座り、レーナを仰ぎ見た。
帳簿の計算をしているときは、話しかけてはいけない。それは小さいころからの教えだ。
だから話を聞いてもらいたいときは、こうしてレーナが計算している姿を横から眺めていることが多かった。
レーナの筋の通った鼻や、自分とは違う宝石のような紅い瞳を覗きこむのは好きだった。仕事をしているときのレーナは、いつだって誰よりも格好良かったのだ。
「よし、終わり! なんか飲む?」
帳簿を閉じて、筆記用具を片付けながらレーナがこちらを向いた。
「ミルクティーで」
「はいはい」
宿の受付カウンターからするりと抜けて、そのまま調理室の方へと入っていく。リリーナはそれを目で追って、しかし立ち上がりはしなかった。
客が寝静まった静かな宿の一階で、かすかに響くのは、お湯を沸かす音と、時計の針の音だ。リズムよく刻まれるそれは、どことなく眠りを誘う。せっかく話しに来たというのに、眠ってしまいそうだった。
「できたわよ」
「ありがと」
手渡されたミルクティーはほどよく温かく、湯気とともに香るミルクが、リリーナの疲れをいやしてくれるようだった。
「それで、何があったの?」
「エーヴェルトさんから話は聞いてない?」
仮にも情報屋と名乗っているからには、その程度のことは知らないはずがないだろう。むしろ、エーヴェルトが知らないことなどないのではないかと疑うほどなのだ。
「やんごとなきお方を救出したけど、爪が甘いのと、あなたの悪癖のせいで捕まりかけたって話は聞いたわ」
「……ほとんど全部知ってるんじゃない。前半はともかく、説明を面倒だって言った話はどこから聞いたの?」
いくらなんでも情報が回るのが早すぎる。ミルクティーを飲むのを止めて、レーナの表情をうかがった。
レーナはどうやらミント水を飲んでいるようだった。透明な液体にはミントの葉が浮かんでいる。そのミントを飲まないように気を付けながら、レーナは器用にグラスを傾ける。
それを飲み干してから、ゆっくりと口の端を持ち上げて、美しい笑みを象った。それは彼女のことを知らない男ならば勘違いしてしまいそうな蠱惑の笑みだが、知っている者にとっては、何かを企んでいることを予兆させるものでしかない。
「アシュレイが来たわ」
「え、ここに? 家に帰ったんじゃなかったの?」
思わず立ち上がり、静まりきった宿の一階を見回す。
どこかのテーブルの影から、黒髪の青年が顔を出すのではないかと思ったからだ。
「もう家に帰ったわよ」
笑いをこらえたように言うレーナを睨んでから、リリーナはその場に座る。
「エーヴェルトからも聞いたけど、事の顛末はアシュレイの方が良く知っていたわ」
「そりゃ……その場にいたから」
「なんか私まで怒られたの。エーヴェルトのこともあるし、あなたが無鉄砲なのはわかるけど、もう少し娘を押えたらどうなんだって」
付き合いのながいリリーナには、アシュレイが怒るその様子がありありと想像できた。アシュレイとはもう家族ぐるみの付き合いなのだ。
「あの様子じゃ、エディにも怒ってるでしょうね」
「あら、墓前まで行って?」
リリーナの父エディ・ファルクは、表向きは死んだことになっている。そのためリリーナとレーナは母娘で手を取り合って生きてきたということになっているのだ。
実際はそんなことはないのだが、それには父の方に事情がある。
「そうね……。あとは、人の宿に滞在してる情報屋を利用したかったんじゃない?」
この宿は、アルヴァの街中にあるきわめて普通の宿屋であるが、一つだけ変わった点がある。それは、知る人ぞ知る情報屋が、この宿を拠点にしているということだ。その情報屋はもちろんエーヴェルトなのだが、そういう事情があって、リリーナは普通の娘よりも物事に通じており、かつ適切な判断を下せる力が備わっていた。
「最初の首謀者が捕まえられてないのね?」
「ええ。あのお方が失踪するだけで利益になる人は少ないんだけれど……」
「候補はあるけど絞り切れてはいない……か。でも、アシュレイがその事件の捜査に手を貸すの?」
「今回のことは、事情を知っている人間を増やしたくないようよ。そもそも王立魔法騎士団は、軍でもわりと自由なポジションにいるから。きっと、動かしやすかったんでしょうね。あの子の階級がトロワってこともあるし……」
王立魔法騎士団の上から三番目の上級階級であるトロワは、単独任務をした時も比較的本人の意志が通りやすく、緊急時に独断で兵を動かせる力もある。
リリーナと同じ二十一という若さでトロワの位を得ているのは、彼が相当努力した結果であるのだろう。
実際、さきほど家に入ってきたとき、制服を着たアシュレイが、おどろくほど眩しく見えた。ただそれと同時に、宿屋の娘として働く自分からは、遠い存在になったような気もしていたのだ。
「なんかアシュレイが遠いな」
ぽつりと独り言を言ったつもりだった。それは紛れもない本心だったが、反応を欲してのことではなかったのだ。
しかしレーナは聞き過ごしてくれはしなかった。
「……そう思うなら、はっきりさせればいいじゃない」
母親からの思わぬ反撃に、リリーナは思わず立ち上がる。どうやらこの母親に隠し事は不可能なようだ。
「そもそもまだ付き合ってなかったの?」
「私が自分から告白するなんて面倒なことすると思う?」
アシュレイに告白しないのは、面倒だからという理由だけでもないのだが、それはレーナに言う必要はないだろう。
「思わない。アシュレイは?」
「さあ? 自分から言ったら負けって思ってるのかな」
「そもそも好かれてなかったりして」
「嫌われてない自信はあるんだけどね」
リリーナは小さくため息をつく。女嫌いのアシュレイは、基本的に女に話しかけることがない。
しかし学生時代から、リリーナにはうるさいほどに絡んできたし、リリーナを叱ることも多々あった。最初は面倒な男だと思っていた。しかし、それが自分への心配や、ある種の愛情だと気づいてからは、アシュレイに対する見方を変えるようになったのだ。
「面倒って言ってばかりいないで、アシュレイに逃げられないくらいの努力はしなさいよ」
不意に頭のうえに置かれた手のひらが温かい。
二十一歳になったとしても、やはり母親というのは変わらず母親であるようだ。
「やっぱりめんどくさい……」
「素直じゃないわね」
いたずらっぽく輝く紅い瞳に見つめられて、すっと顔を横に向ける。やはりレーナに嘘はつくものではない。何をやったってすぐに見抜かれてしまうからだ。
「めんどくさくっても、そのイヤリングだけは毎日つけてるんでしょ?」
すっとレーナの手が伸びて、リリーナの右耳にひかるイヤリングに触れる。深い緑色の石が埋め込まれたそのイヤリングは、近くで見ると複雑な文様が刻み込まれている。
「しょうがないでしょ……。必死に頼まれたら、従うしかないじゃない」
ミルクティーを飲み干して、横目でイヤリングの方に視線をやる。学生時代にあったとある出来事以来、毎日つけつづけているものなのだ。
「でも私は別にアシュレイじゃなくてもいいわよ」
「え?」
「いろんな男から言い寄られてるでしょう? 面倒の一言でばっさり切り捨ててるみたいだけど、別にいい人がいたら乗り換えていいのよ」
これはきっとレーナの本心だろう。行動に出ないリリーナにもアシュレイにも業を煮やしているのだ。
リリーナが二十一歳にもなって恋人もいないということに、母親としての焦りがあるのも分かる。
「もう、あんまり深く考えないで。今日は遅いから、屋根裏に泊まっていきなさい」
「……おやすみ」
「ええ。おやすみ」
肩より少し長い位の銀髪が、さらさらと揺れる。
後ろ姿は自分の若いころにそっくりだと、レーナは思った。
「母娘の会話を盗み聞きだなんて、褒められたものじゃないわよ、エーヴェルト」
リリーナが階段を上りきったのを確認してから、背後の調理室に潜む陰に声をかける。
娘にすら気配を悟らせなかったその男は、足音を立てることなく、レーナの隣に立った。
そしてさも当然とばかりにレーナの腰に手を回して引き寄せる。
「気づいていて聞かせた貴女も同罪です」
黒縁のメガネの奥には、夜明け前の空の深い色の瞳が隠れている。その瞳は情熱的にレーナを見つめていた。
「アシュレイにもね、同じことを言ってみたの」
「同じこと?」
「私はアシュレイじゃなくてもいいって話」
くすくすと楽しげに笑うレーナに、エーヴェルトはわずかに表情をひきつらせた。
「それは……酷じゃないですか」
「だって、もどかしいんだから」
「それでアシュレイはなんと?」
「レーナさんだけは味方だと思ってたのに、って言われたわ」
あのいつも冷静で済ましている青年が、絶望の色を浮かべたときは、思わず笑ってしまいそうになってしまった。レーナとしては、進展を望んで言ってみただけだったのだが、予想外に衝撃を与えてしまったようだったからである。
「本当にあきらめられても困るから、今はあなた以上にいい男がいないって言ってあげたけどね」
「……エディが生きていれば、きっとこう言うでしょう」
情報屋という立場ゆえに、微妙な言い回しをするエーヴェルトに、レーナは視線だけでその先を促した。
「君は天使の皮をかぶった小悪魔だ」
「エディは呆れるかしら?」
そんな言葉を聞いたレーナは、少し不安げにエーヴェルを見た。
「……いいえ。そんな貴女をも愛するでしょう」
「やだ、嬉しい」
手持無沙汰だった両手をエーヴェルトの首に回し、そのまま頬に軽いキスを落とす。
「二人の恋路に協力してやってくれる? エーヴェルトさん」
「……しょうがないですね」
「ふふ。ありがとう」
茶目っ気たっぷりにウインクしたレーナは、非常に無防備であった。
「報酬はもらいますけどね」
だから、耳元で低い声で囁かれた時、何の反応もできずにいた。
ただエーヴェルトに今までよりも強く抱き寄せられ、気づいたときにはエーヴェルトの瞳に、自分の赤い瞳が映りこむほどまでに近づいていた。
そして二人の距離はゼロになる。
レーナが、それが報酬であったと気づくのは、二人の長いキスが終わってからのことであった。
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