二章
「真白!」
叫びながら、彼女が待つ居間の扉を開ける、と、
「おーそーいー」
という苦情が飛んできて、俺は肩を落とした。真冬だというのに、中に着たシャツが汗で背中に張り付いて気持ちが悪い。そんな俺に真白は「焦った顔してどったのぉ?」と小首を傾げる。
「いや、雪が止んだから」
「え、マジマジ?」
出窓へと駆け寄った真白は、緑色のカーテンの隙間から窓の外を窺って「ホントだぁ!」と驚いた様子で俺へと振り返る。
「あれれ。なんでだろ? 誰かが真白の魔術を妨害してるのかな。うーんでもそんな面倒なことをわざわざするとも思えないなぁ」
「第一そんなことができるのは世界で五人といないだろ」
いや、ひとりもいないかもしれない。真白はアホの子だけど、こと魔術に関しては、ずば抜けているのだ。
古今東西、あらゆる魔術師が束になってかかっても、真白ひとりに敵わない。上の連中が至極真面目に、そういう結論を出すくらいに、御門真白は規格外なのだ。故に神話。一部の連中は真白をそんな風に呼んでいる。
……そうなのだ。そんな真白に万が一なんてあるはずがないのだ。焦って走って損をした。頭を捻る真白をよそに、雪で湿ったスニーカーを片手に、風呂場へと向かう。
真白の自宅は、お伽噺――いや、ミステリー小説に登場するような、古めかしい洋館だ。長い廊下に、広い窓。時代錯誤な黒電話の横を過ぎた辺りで、足音が聞こえたので、振り向く。
「お風呂?」
「風呂」
「真白も入る」
自浄機能付き(もちろん魔術)のお嬢様なので汚れることはないが、足首まで伸びたその黒髪までは文字通り手が回らないようで、ゴミ捨て場で時折見かける日本人形のようになっていた。
酷いときには重力など無視して天井に触れるくらいに逆立つので、コレでもまだマシなほうではあるが、放っておくと風呂に入ろうとしないので、いい機会だろう。途中八つの部屋を抜けて、脱衣所へとたどり着いたその矢先、己の服を破ろうとする真白にストップをかけた。
「ちょいちょいちょい!! お前はもう少しお淑やかになれよ。いちいち豪快すぎるんだよ」
「だったらゆきりんが脱がしてよね!」
と、なぜかキレ気味の真白ではあったが、万歳のポーズで「ふんっ‼」と睨まれても怖くはない。俺はワンピースの裾を握るなり、一気に引っこ抜いた。何とも豪胆なスカートめくり。そのうえ真白は下着というものをバランスが云々とかいうわけのわからない理屈で嫌う変態裸族なので、一秒にも満たない一瞬で、児童ポルノを生成できてしまう。
目を逸らそうにも背後の鏡にも真白の裸体が写っているので諦める。そもそも、十四歳、それも発育の遅い真白を意識するのがおかしいわけで。何せ俺はもう二十歳。お子ちゃまの裸に興奮するような性癖は、生憎と持ち合わせていない。
「ぶつぶつ言ってないでゆきりんも早く脱いでよね。――ぬうッ!?」
「ぬうッ!? ってなんだよ」
と、真白の視線を辿ったその先、陰部から太ももにかけて、赤黒い液体が垂れていた。
「なんだよ、生理かよ。今日は湯船に浸かるなよ、お前」
「え、セイリってなに? え、なにこれ!? 血!? 真白の血⁉ 生まれて初めて自分の血を見たよ⁉」
と、混乱した様子の真白に、一から説明するのもあれなので、一足先に、風呂場へと足を伸ばす。
体を流してから浴槽に片足を突っ込んだタイミングで、真白が入ってきた。動揺しているのか、口が開いたままだ。それでも、俺の注文を一切聞き入れることなく、湯船にダイブしたのはさすがだ。
そのまま頭を打ち付ければいいのに、なんてあり得もしない天罰を願った俺の耳に、ごつん、という鈍い音と「――ッたい!!」という声が届いた。
「え」
見ると後頭部を抑えた真白がいる。目には涙、顔には疑問符が浮かび、自分の身に何が起こっているのか理解できていないようだった。
実際、それは俺もそうだった。真白は常に何重にも張られた強固な結界で守られている。
故に、不意打ちは通じず、寝込みを襲われても問題がなく、それどころか夏場に蚊に刺されることもないのだが、その真白が浴槽に頭を打った。その事実に、驚かざるを得ない。
「なにこれ!? どういうこと!?」
焦燥する真白というのも珍しい。それにしてもいったい、どういうことだろうか。真白がふざけているとも思えない。それに真白の異常は、これだけではなかった。雪が止んだのもそうだし、経血で汚れていたのも変だ。
「……お前、もしかして今魔術を使えないんじゃねぇの?」
「そんなわけないじゃん。ゆきりんは馬鹿なの? 真白にかかればこのお風呂のお湯をメロンクリームソーダにすることだって余裕なんだか~――……、できない」
――やっぱりか。
今現在も世界最強の魔術師である御門真白の全盛期は、実のところもう五年近くも前なのだという話を聞いたことがある。
例えばその頃の真白は、時を遡ることも、別の次元に行くことも、空を飛ぶこともできたのだという。でも今の真白には、そこまでの力はない。もちろん今でもぶっちぎりで最強だ。最高だ。しかし、衰え続けている。
それでも今尚圧倒的に、最強の座に君臨しているのだから、その全盛期とやらがいかに凄かったかがよくわかる。
「そんなはずないんだけどなぁ。ほら、炎くらいなら――出せないや」
おそらくは、初潮が原因だ。真白の体は子供から大人になった。だから、一時的に魔術を使えなくなってしまっているのだろう。
「ま、いっか」
勝手に納得して、肩までお湯に浸かった真白に「いやいやいやいや!」と全力でツッコミを入れる。
「全然よくないだろ。ビックリするくらい軽いなお前!」
「えー、別にいいんだけどぉ?」
「だってお前、お前の命を狙ってる連中だっているんだぞ。お前が魔術を使えないって知ったら、世界中からぞろぞろと集まってくるぞ。ユーを殺しに日本へだぞ」
「そうなって困るのは、ゆきりんじゃん」
……そうだった。
真白の死は
何せ、俺の胸の奥では、真白の心臓が拍動している。要するにまさしく一心同体。左胸に手を当てて、その鼓動を感じながら俺も浴槽に入った。
「ん、でも別に困るってほどでもないのかな? だってゆきりんは真白を殺す為に、真白の家にきたんだもんね。ま、今真白を殺したらゆきりんも死んじゃうけど。それでも真白を殺した英雄として、ゆきりんの偉業と名前は未来永劫語り継がれるんじゃないかな」
「死んでたら名誉も何もないだろうが」
喜ぶのはせいぜい、俺をこの屋敷に派遣した上司くらいなモノだろう。
そう、何を隠そう俺は御門真白葬るべく送り込まれた刺客なのだ。
そんな不届き者に己の心臓を渡して、
「じゃあ、真白を守ってよ」
「俺が守るまでもなく、この屋敷の結界がどうにかしてくれるだろ」
真白の屋敷を覆うこの結界は、真白によって施されたモノではない。これは御門真白という怪物を、ここに封じ込める為に俺の上司が用意したえらく頑丈な代物だ。
「ぱんぱかぱーん。折角だから真白はお外に遊びに行こうと思います! 下界をエンジョイしちゃうんだぜ」
立ち上がり、満面の笑みでグッドサインを掲げた真白に、俺は眉根を寄せる。何を言い出すかと思えばこれだ。
「言っておくけど今のお前は小型犬にすら負けるレベルだからな」
「失礼しちゃうな。真白だってさすがに、チワワには勝てるよ。あ‼ 真白はペットショップでわんちゃんを買いたいです」
「大体お前は外にでられないだろ」
「今ならでられるんじゃない? だって魔術を使えないってことは魔力もないってことだから、この結界も機能しないと思うよ」
「え、そういうもんなの?」
「うん、たぶん。だから明日は映画館に行こうね」
「いや、だからお前は命を狙われてるの。そんなお前が魔術も使えない状態で外に出てみろよ、速攻で殺されるぜ」
「別にいいんじゃない? 誰も困らないでしょ」
「いや――うん、確かに誰も困らないけど」
ただそれだけで、世界が救われるけれども。
「真白が殺されるのが悲しいのなら、ゆきりんが守ってくれればいいじゃない?」
「俺はお前を殺す為に送られた刺客なんだぜ」
「でも、それでもゆきりんは優しいから真白を殺さないじゃない。今だって、真白の首を絞めれば、真白を湯船に沈めれば、それだけで殺せるのに」
それもそうか。今ここで終わらせる事も出来るのか。
「いや、そんな事したら俺も死ぬじゃん。嫌だよ。ていうかお前、これこの心臓止まらないだろうな⁉」
「それは大丈夫じゃない?」
と、真白の小さな手のひらが俺の左胸を軽く撫でる。
「真白の
ふん、と自慢げに鼻を鳴らした真白に、俺は「うげぇ」とドン引きしてみせた。
「化け物じゃん」
正真正銘、人外じゃん。こんな怪物、どうやったって倒せないじゃん。ん? いや、違うか。逆にいえば。
「この心臓さえ壊せば、真白は死ぬのか」
「うん、そうだね」
「どうしてそんな大事なモンを――」
言いかけて口を噤む。真白の魂胆は、俺の上司に看破されている。簡単に言ってしまえば、俺と同期して、俺の魔術を奪う為の前段階なのだという。
そしてかつて真白はこう言っていた。俺の魔術は特別で、神様さえ殺し得る力なのだと――いやいや、そんな上等な代物ではないのだが、でもまあ実際、キミの魔術なら真白を殺せるかもしれないねぇ的なノリでここに派遣された経緯もあるのだから、あながち間違いでもないのだろう。
そう考えると俺もなかなか捨てたもんじゃないなぁという結論に至ったところで、真白はこう言った。
「だから、つまり、これから訪れる五人の刺客たちは、ゆきりんの命を狙ってくるだろうね」
「は?」
いや、確かに。俺を殺せば――即ち俺の中にある真白の心臓を破壊すれば、真白は死ぬのだけども。それを知っているのは、たった今その事実を告げられた俺と真白だけのはずだ。
俺は今までずっと真白の死がトリガーになっているのだと勘違いしていたが、実際はその逆。俺が殺すことで真白という神話を終わらせることができる――というなんとも難易度の低い話のようだ。
「――は?」
「この会話はゆきりんの上司も盗聴しているだろうから、ゆきりんが命を狙われるってわけ」
あっけらかんとそんなことを言う真白に、俺の脳みそはしばしの間フリーズした。CPUの使用率が100%の状態と化した俺に真白は続ける。
「おそらくだけど。真白が魔術を完全に取り戻すのに五日くらいかかるから――五人。本当は今すぐにでも全ての手駒をぶつけてきたいはずだろうけど、あそこも一枚岩ではないからね。何よりこの国の御三家は随分と縄張り意識の強い連中だし? 一日ひとり送るのがせいいっぱいでしょ。だから五日で五人。あくまで希望的観測に過ぎないけどね。こんなこと言ってていきなり百人とかで押し寄せてきたらウケるよね」
まったくもって笑えないけど、真白の言っていることはたぶんだけど正しい。
真白を殺そうと目論む連中がいる一方で、真白を利用しようと主張する連中がいるのも確かだ。だから仮に俺の上司がこの会話を聞いていたとしても、あまり表立った行動にはでられないだろう。
……もっとも。冷徹な彼女のことだから、情け容赦なく俺を殺しにくるのだろうけども。
「だからね、ゆきりん。死にたくなかったら、全力でこの五日間を生き抜いてね。真白のためにもさ」
御門真白は、天使のように微笑んで、悪魔のような宣告をするのだった。
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