彼女は右目が見えない 3

僕は首を横に振った。

「それほどは知らない。北九州にあって県庁所在地が福岡市で、それから大宰府があったことぐらい」

「それだけ知ってれば充分よ。あいつらは福岡が何処にあるかも知らないわ」

島田彩美はそれから自分の暮らしていた町について訥々とつとつと語った。椰子の木が並ぶ海岸線のことや、夏のビーチのこと。自宅の庭に住み着いた鳥のさえずりのことや、初めてできた恋人のこと。彼女は吐き出すようにあらゆることを喋りながら、絶えずビールを飲んだ。

その話に目的地はないようだった。さすらいの旅芸人の一座のように、右往左往と、あてもなく。僕はその一つ一つに丁寧に相づちを打ち、何も言わなかった。

本当は、そんな話にまったく興味はなかった。できることなら一刻も早くこのタバコ臭い場所から逃げ出してしまいたかった。しかし、喋り続ける彼女は生き生きと見えたし、話し相手を欲しているようにも見えた。

彼女は自分の家族についても語った。競馬好きでだらしのない父親と、パチンコ好きの口うるさい母親。そしてサッカー部のキャプテンだった兄について。その話題が終わると、彼女はまた黙ってグラスを煽り始めた。もう語りたいことは残っていないようだった。

僕は特にこれという話題を出さなかった。島田彩美はそれを望んでいなかったからだ。

八杯目のビールを飲み干した彼女は、テーブルに突っ伏すと、顔だけを僕の方に向けて目を細めた。

「あなたって、もしかしたら格好良いのかもしれない」

「そんなこと生まれて初めて言われた」と僕は笑った。

「イケメンじゃあないんだよ。なんだけどね、なんて言えばいいんだろう。悪くはないの。妥協点としては丁度良いって思える」

「そりゃあどうも」

島田彩美は頬をテーブルにくっ付けて、やたらうるさい一団を眺めた。彼らは女の子の身体を触りながらいやらしく笑っていた。各々の性体験について語っているようだった。島田彩美がどんな表情で彼らを見ているのか、ボサボサの黒髪のせいでよく分からない。

「何処か別の場所で飲まない?」と僕は提案した。

「いいね」と島田彩美は答える。「高級ホテルの最上階のバーなんてどう? 窓際に座るとね、この街が一望できるの。そこには物知りので有能なバーテンダーがいて、お洒落な音楽が小さくかかっているの」

「素敵だと思うけど、そんな場所に連れて行けないよ?」

「うん。分かってる。でも、ここよりはマシな店に連れて行ってくれるんでしょ?」

「ここよりもひどい所はそう存在しないよ」

「そうね。ここは地獄だわ」

僕たちは並んで席を立った。何人かの男たちが面白そうに、あるいは下品な顔で僕たちを見送ったが、島田彩美はそのことをさほど気にしなかったし、僕にしたってそれはどうでも良いことだった。

きっと、彼らが予想した通りのことを、僕は今まさにしようとしているのだから。

店を出たところで、島田彩美は言った。

「ひどい場所だった」

「そうだね」

「ところでどうしてあなたはこんな場所に来たの。友だちだっていないんでしょう?」

その質問は僕を困らせた。明確な理由がそこにはあったのだが、それを素直に白状するのはいささか具合が悪い。

「誰かと飲みたい気分だったんだ。そういう日ってあるだろう。嫌なことがあったり、センチメンタルになったり。だから、良い機会だと思って飲み会に参加したんだ。そしたら、君に出会った」

「全くの偶然として」

「そうだね」

「手をつないでもいい?」と島田彩美は尋ねた。

「もちろん」

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ヤドリギの恋 影月深夜のママ。 @momotitukumo

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