あなたに会うとき、私は私らしくあれる4

「それはそうよね。だって、一緒にいて疲れてしまう相手なのよね。恋人にするには致命的だわ」

正確を期すならば、僕はその二歳下の女の子に疲れてしまうわけではなかった。二歳下の女の子に会うことを想像すると憂鬱になるのだ。そこには大きな違いがある。

もし僕がその女の子と自然な形でめぐり逢い、彼女に水族館に誘われることがあったのなら、成り行きで恋をしてしまうこともあったかもしれない。もちろんそんなことがありえたらという話だけれど。ともあれ僕は彼女と恋をすることは「実際的」にできなかった。僕はそのことに対して訂正もせずにパスタを食べ、水を飲み、雪音さんの身体に目が向かわないように注意しながら、不確実に進む時間を持て余した。

それから食事を終えコーヒーを飲むまで、僕らは何も語らなかった。今すぐ解決しなければならない議題はなかったし、熱心に向き合うべき共通の関心事もなかった。

僕たちの趣味は異なっているのだ。僕は西洋の絵画が好きでモディリアーニを愛していたし、雪音さんはクラシックが好きでヴェートーベンを愛していた。芸術という枠組みに収めてみたところで、僕たちの間に生まれる共通認識なんて「昔の芸術は良かった」ということぐらいだろう。武田信玄が好きな者と、ヒットラーを憎むリベラル派が会合したところで盛り上がらないのと同じだ。

僕と雪音さんは月に二度か三度こうやって一緒に食事をする。そのとき、ほとんどはどうでもいい話ばかりしていた。その大半が昔の人物や歴史についての話題だった。ルネサンス期の画家たちや、歌を作った皇帝。それはとても無害で無益な話である。現実で起きたことでありながら、突拍子もなく空想的な物語なのだ。僕は雪音さんとそんな風に話すことをとても気に入っていた。

リアルな国際情勢になんて興味はなかった。僕にしてみれば遠い国で戦争が起きようが、難民たちが東の砂漠から押し寄せようが、飢餓で小さな子供たちが死のうがどうでも良かった。そんなものは考えたい人間か、考える必要に迫られた人間が考えればいい。少なくとも、日曜日の昼下がり、綺麗な海に面した喫茶店でする話ではない。

店を出ようと席を立ちかけたとき、雪音さんは僕に尋ねた。

「あなたはどういう女性が好きなのかしら」

「恋をする相手として?」

雪音さんは頷いた。

「音楽や絵画や彫刻を愛し、寛容で慈悲深い優しさを持ち合わせ、思慮深く、ユーモアがある。けれど、僕が手を貸してあげたくなる不器用な女性」

「芸術を愛し、優しく、思慮深く、ユーモアで、不器用な女性」

「まあ、噛み砕けば」

彼女は解読するようにその言葉を何度か繰り返した。

「あまり現実的とは言えない理想ですか?」と僕は聞いた。

「全く現実的じゃないわね」と雪音さんは首を振った。

「まあ、でも、恋愛に妥協は出来ないでしょう。妥協して付き合えば惨めな気持ちになります。好きなでもない女の子とプラネタリウムで、例えばベガとアルタイルを探してみたところで、きっと僕たちには見つけられない」

「そんな相手がいたの?」

「昔のことです。やめましょう。こんな話」

僕たちはそれぞれの会計を済ませ店を出た。夏はめまいがするほどの暑さでその存在を主張していた。一緒に国道へと続く階段を下りていると、潮の香りを乗せた穏やかな風が吹き始めた。そうしているうちに僕は雪音さんを恋人にする可能性について考えたが、すぐにやめた。

それはあまりに現実離れしている妄想だった。僕は雪音さんと釣り合うような男ではない。顔は平凡だし、身体は痩せすぎている。おまけに歯並びも悪い。モディリアーニについては語れても、女の子の喜ぶような面白い話はできない。じっくり眺めれば、真面目とか協調性があるとか、そんな履歴書に書くような長所ならいくらかは捻り出せるかもしれないが、もちろんそんなものは本質的に僕を輝かせてはくれない。蝶が綺麗な花の蜜を吸うように、魅力的な絵を画家が描こうとするように、人間は美しいものに恋をするのだ。

だから、僕は僕よりほんの少し背の低い雪音さんを黙って眺め続けるしかなかった。それは残念なことだが、仕方のないことでもある。

僕たちは階段を降りきったところで立ち止まった。そこから、僕たちの帰る方角は違う。

別れ際、雪音さんに僕は言った。

「そういえば喫茶店に入って思い出しました。お前は喫茶店のマスターになるべきだと言った友人がいるんです」と。

「そうね。あなたはスーツを着て会社に行くよりそっちの方が似合っていると思う。その友人のこと大事にしたほうが良いわね。正しく自分を理解してくれる友人がいるのは素敵なことよ。私にはそんな友人はいなかったから」

「『彼』は違うんですか?」

驚いたように目を見開いた雪音さんは、やがて力なく首を振った。

「あの人はなかなか帰ってきてくれないの。ずっと、待ち続けているのだけれど」

そこで僕たちは別れた。一人、国道に沿って歩きながら、僕はその友人が三年ほど前に首を吊って死んだことを言うべきだったのか考えた。しかし、もちろん正しい答えはどこからも出てこなかった。


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