あなたに会うとき、私は私らしくあれる3


「なにか、嫌なことでもあったのかしら」

 雪音さんは窓の外に視線をやったまま、平坦な言葉で僕に尋ねた。

「どうしてそう思うんですか?」

「浮かない表情をしているから。胃痛に悩むパンダみたいな顔をしているわ」

 僕は思わず苦笑した。それは相当マヌケな顔に違いない。

「明日、人に会うことになっているんです。だから、ちょっと憂鬱になっているのかもしれない」と僕は言った。

「その人の事が嫌いなの?」

「嫌いというわけじゃないんです。ただ、一緒にいるとうんざりしてしまう。そういう言い方が良くないなら、一緒にいることで疲れてしまうんです」

「その相手とは会わないわけにはいかないの?」

「会わないと困る人が出てくるかもしれない」

 雪音さんはそのことについてしばらく考え込んでいたが、やがて諦めたように首を振った。

「でもね、そういう気持ちはよく分かるわ。私の場合はほとんどの人にそんな冷たい気持ちを抱いてしまう。だってみんな冴えない話ばかりするのよ。私の知らない人のことや、誰かの悪口。品のない冗談。よく飽きないものと感心する」

「自分の年収や出身大学も」と僕は付け加えた。

「たくさん聞かされた。私に好意を寄せる人たちは、とにかく自分をよりよく見せようとする。謙虚とか遠慮とかその類の言葉を忘れてしまったように、貪欲に自分をアピールするの。とても苦笑の多い人生だったとか、会社にはどれだけの部下がいてどれだけの信頼を得ているとか。でもね私が本当に聞きたいことはたった二つしかないのよ」

「何でしょう」と僕は尋ねた。

「その人がその人である理由と、芝居が上手いかどうか」

「芝居?」と僕は聞き返した。

「とても大事なことよ。なにせ人は多くの時間を理性的に過ごさなければならないんだから」

「わかりません」と僕は首をひねった。

「だってあなた、好きな人の前でありのままの自分でいるつもり? 少なくとも何かを隠して、そうじゃなきゃ何かを繕いながら恋人と付き合うものでしょう。私はね、別に相手の一から十まで知りたいわけじゃないの。むしろ、そんなものは一欠片も見たくないの。最初から最初まで、一から百まで理性的な芝居を続けてほしいの。自分の恋した人の醜いところなんて見たくはないでしょう?」

 確かにそういう考えもあるかもしれない。

 雪音さんは恥じ入るように俯いた。

「ごめんなさい。自分のことばかり話しているわね」

「気にしないでください」

「でもね、私はあなたのことを結構気に入っているのよ。私の目から見てね、あなたはとてもまともな人間に見えるの」

「僕にしたって、それほどまともな人間じゃないですよ」

「ねえ、告白するとね、あなた以外の人に会うことってほとんどないの。嘘みたいかもしれないけど、本当のことなのよ。他の人は嫌な人ばかりだわ。でもあなたはそうじゃない」

 僕はフォークを使いパスタを口に運んだ。彼女はその動作を面白い生き物でも観察するように眺めていた。そのうちにもう一度遠くの方から船の汽笛が聞こえ、僕は顔を上げたが、それが何かの合図ということでもなかった。青い海はピカピカと輝いている。この店に他の客がくる様子もないし、カウンターの脇に飾られた帆船の模型が動き出すこともない。

「ところで、あなたが明日会うというのはいったいどんな人なのかしら?」

 僕はフォークを止めて再び水を飲んだ。

「気になりますか?」と僕は尋ねた。

「ええ」と雪音さんは頷いた。「とても気になっているわ。私はまだあなたのことをそれほど知らないから」

「女性です」と僕はまず最初に言った。

「若い子なのかしら?」

「僕よりも二つ下になります。髪は茶色いショートヘアで、背は僕よりも低い。都内の専門学校に通っていて誕生日は建国記念日の前日。それから漫画とアニメが好き」

「とても事務的な説明ね」

 雪音さんはちょっと呆れたように首をかしげた。

「もうちょっと感情的な説明はできないの? あなたはその十九歳の女の子についてどう思っているとか」

「どう思っている?」

「そう。恋人にしてもいいと思っているとか、そういう話」

「友だちですよ。水族館で一緒にイルカのショーを見ないかって誘われたんです。チケットが余ってるからって。だから、会って、イルカを見て、ご飯を食べて、それだけです」

「あなたって結構鈍いのかもしれない」

 白い綺麗な指でカップの縁をなぞりながら雪音さんはそう言った。

「異性の相手を二人きりで水族館に誘うということは『私はあなたに好意があります』って遠回しに伝えているようなものだとおもうけど」

「そうなんでしょうか?」

「私が二つ年上の男性に水族館に誘われたら、真っ先にその可能性に行き着くわ」

「あるいはそうなのかもしれません」

 僕はその白い指に見惚れながら応えた。

「でも、僕たちが恋人になるのはありえないことです。実際的に」


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