あなたに会うとき、私は私らしくあれる2

 その日、僕と雪音さんは海辺の喫茶店で食事をした。店には僕たちの方には誰もいない。それは閑散としている、というよりは風情がある佇まいを強調しているようだった。人の少ない教会に神秘を与えるように。

 窓際の席に座ると、国道の向こう側に海を一望することができた。山脈のような波の起伏が海面に太陽の光を乱反射させていた。

 目を凝らすと沖合にいくつかのヨットが無気力に浮かんでいるのが見えた。青い帆が不規則に列を作る様はとても夏らしいと思った。時折、カモメの鳴き声に混じって船の汽笛が聞こえてくる。

 メニューを運んできた白ひげの年老いたマスターに雪音さんは声をかけた。

「ここは良い海ですね」

 マスターは目を細めて彼女に笑いかけた。

「そうでしょう。とても静かで綺麗な海です。ここは一年中こんな感じにひっそりとしています」

「とても静かで綺麗な海、ええ、分かります。私が始めてこの街に着たとき、そのことに感動したことを覚えています。なにせ私は東北の海のない場所で育ったから、なおのこと」

「この街の海は気に入っています。ビーチや大きな港が無いところが特に。わざわざこの海で泳ぐために街を訪れる人間はいません。泳ぐための海にするには波も荒いし、人も少ない。そのおかげで美しさは保たれるのです。たまにああやって、金持ちたちがヨットを浮かべたりすることもありますが、彼らは無害です。汚いものを嫌う上品な人たちです。本当に美しいものは人の少ない場所でひっそりと存在するものです」

「美しい羽を持つ珍しい蝶のように」と雪音さんは言った。

 マスターは髭の奥で白い歯を見せながら嬉しそうに笑っていた。

「美しい蝶は深い森でしか舞いません」

「ええ」と雪音さんは頷いた。

 彼ははっきりした足取りでカウンターの中に消えた。

 ペペロンチーノをフォークに巻ながら、僕は森の奥で舞う蝶について考えた。ステンドグラスのような光沢を持つ羽。じめじめした森の中で羽ばたく一匹の蝶。音を立てず風を起こさず、ゆっくりと羽を動かすのだ。

「絵に残したい光景かもしれません」と僕は言った。

 雪音さんは僕に視線を向けて微笑んだ。

「悪くないわね。モネなんかが描きそう」

「モネの『グラジオラス』の中には白い蝶が描かれています。たくさんの蝶が赤い花弁の周りを飛んでいるんです。その蝶たちは特に美しいというわけでもないけど」

「詳しいわね」

「絵が好きなんです。描くことも好きでした。モネはそれほど好きじゃないんですけど」

「私はモネは好きよ。絵画の良し悪しというものは分からないけど、彼のぼんやりとした絵を見ているとなんとなく懐かしくなる。私はパリで生まれたわけじゃないのにね。小さい頃に戻った気分になる」

 僕は頷いた。

 長引く猛暑に耐えかねてか、雪音さんはいつもよりずっと薄着をしていた。襟口からは鎖骨が覗けたし、大きな胸もいつもより強調されていた。甘い匂いもいつもより強い気がする。僕は一口で水を半分まで飲んだ。

「ところで、あなたは絵を描いていたの?」

「少しだけです」と僕は答えた。

「今も描いているのかしら」と雪音さんは尋ねた。

「もうやめました」

「どうして」

 僕は思わず口をつぐんだ。言えないことではない。ただ、それを上手く伝えることは少しばかり難しいことだった。悩んだ末に僕は言った。

「真っ白なキャンバスの上に色を塗るよりも、決められた空白に正しい解答を埋めることが得意だって気付いたんです。それから絵がそれほど好きじゃないことと、自由というもののことの窮屈さにも」

「変わってるわね」

 雪音さんはにっこり微笑んでコーヒーカップに口をつけた。

 僕はまず彼女の琥珀色の瞳を見て、それから白い首元を眺め、そして形の良い乳房に見とれた。そんな自分に、僕自身、恥ずかしくなった。

 雪音さんはとても美しい女性だった。彼女が道を歩けば誰もが彼女に振り向いた。彼女が微笑めばとたんに男たちは恋に落ちた。その美しさは巨大な質量を持つ惑星のように、理不尽な引力で(意識するしないに関わらず)周りの人間の心を引き寄せ、歪ませ、往々にして彼らを狂わせた。彼女にはそういう資質が備わっていたのだ。

 雪音さんの美しさは完成された美しさだった。雪音さんの美しさを例えるなら、造形芸術の粋を結集して作られた人間のイミテーションのようなものだ。普遍的な美しさだけが込められている。奥行きもないし趣もない。もしかしたら魂すらないのかもしれない。けれど、その偏った存在と不在とが雪音さんに覆し難い価値を与えていた。

 僕ももちろん、その美しさに惹かれる人間の一人だった。

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