一章

あなたに会うとき、私は私らしくあれる1

「あなたと会うときが、私は一番私らしくあれる気がするの」

 初めて雪音さんとの食事で僕は彼女にそんなことを言われた。よく覚えている。

 その言葉は僕と雪音さんとの関係の象徴であり、また二つのものを与えてくれた。一つは、彼女と付き合う上での揺るぎない一本の支柱であり、もう一つはささやかな慰めである。

「僕に会うとき、雪音さんは雪音さんらしくあれる?」

「その通り」と彼女はにっこりうなずいた。「多分、自分一人でいるよりも、ずっと」

 雪音さんについてあまり多くのことを知らない。僕より五つ歳上で博識であり、ヴェートーベンを深く愛している。それぐらいだ。

 彼女がどこで働いているのかとか、誰と暮らしているのかとか、全く気にならないと言えば嘘になる。しかし、雪音さんには、下賤な詮索を躊躇させるような雰囲気があった。素性を意図的に探ろうとすると自分がとても穢れたものであるような気分になるのだ。それはある種の神聖性に近いものかもしれない。なにせ雪音さんはとても美しい女性だったのだ。

 なぜ僕といるときは自然でいられるのだろう、と尋ねてみると雪音さんは笑みをたたえたまま続けた。

「あなたはとてもクールだから」

「クールですか?」

「もっと正しく表現するならニヒルっていう言葉を使うわ。虚無的なの。深い闇に向かって話しかけているみたい。でもそれは、決して悪い意味ではなくて。なんて言うべきなのかしら。少なくともあなたに会うとき、私は変に気を使わなくていい。いやらしい視線から胸元を隠す必要もないし、下品な質問に答えなくて良い」

「でもニヒルっていうには一般的に良い評価ではないように思えますけど」

「そうかもしれない。でも少なくとも私はあなたの前では心地よいと思っている」

「それは喜んでいいことなのでしょうか?」

「さてね。それを決めるのは私じゃないわ」

 僕に対する人物評価の信憑性がどれほどのものなのか、僕自身にも判別はつかない。曇りなき鏡であっても、一つの文字さえ鏡写しになり正しく見せてはくれなのだ。しかしながら、その人物評価は僕が雪音さんと付き合ううえでの一つの指標になったことは間違いない。

 食事の後、僕は彼女に誘われて駅前のバーに入り、そこで何杯かのジントニックは飲んで、それなりにいい気分になったりはしたが、それから手をつないだりきスをすることは無かった。彼女を駅まで送り、僕は一人で小さな冴えないアパートへと戻り、安い缶ビールを飲んだ。

 もし雪音さんが僕に対してもっとソリッドな感情を抱いていたら(あるいはそういう表現を使って僕を評価したなら)彼女との関係は淡白で、短命に終わっていただろう。きっと僕は彼女に応えようとしたからだ。

 しかし、雪音さんが求めていたのは自らの隅から隅までを受け止めてくれる夜の空のような虚空であった。それぐらいしか彼女を正しく受け止めてくれるものはなかったからだ。そして悲しいことに、本質的に僕自身、虚空そのものだった。

 その事実を知るのは、ずっとずっと後の話になる。

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