ヤドリギの恋

影月深夜のママ。

プロローグ的な何か

夜の空に飛行機が飛ぶ

 ときたま遠い夜の空に飛行機の飛ぶ気配がする。

 頭の中に浮かぶのは白と青のラインを持つ、巨大なジャンボジェット機だ。ボーイング747。途方もない輸送力を持つ傑作旅客機。重たい機体が東京の夜景を背に、ゆっくりと上昇している。例えばアメリカのニューヨークやイタリアのミラノを目指して。

 もちろん、かすかに伝わってくる気配がボーイング747だという根拠はないし、それがアメリカの大都市を目指しているかどうかも定かではない。より性能の良い新型機ということもあり得る。あるいはまったく関係ない、気圧と気流が作り出す空気音の一種かもしれない。自衛隊の演習場から響く砲声の欠片かもしれない。

 ただ、その気配だけが、一人ぼっちの部屋においても僕と世界とを辛うじて繋いでくれる一本の確かな糸だった。

 その日はなかなか悪くない夜だった。明かりを全て切った室内は暗い。どれだけ目を凝らそうと慣れることはない。中途半端に開けた窓からは遠慮がちに風が吹き込んでいる。それは僕が安らかに眠るために必要なものたちだった。完全な闇。適節な温度。適度な風。簡単な条件とは言えないが、それさえ揃えればすぐに睡魔はやってきて、夢の世界へと運んでくれる。

 しかし、どうやらまだ眠れそうにはなかった。頭と身体は休息を求めている。それなのに、確かな予感が身体に居座って、脳だか、心だか、どこかの部位が眠りに落ちることを拒んでいるのだ。

 日付があと数分で変わろうとしていた。時計を見なくてもそれは分かる。体内時計の正確さには自信がある。(その事実は、おそらく僕が他人に打ち明けられるほとんど唯一の特技だ)

 枕元のガラパゴス型の携帯電話が音を立てて光った。ベッドから腕を伸ばし、手のひらサイズのそれを開いてみるとメールが一件届いていた。大学生の恋人からのものだった。

 どんなことが書いてあるのか、僕はだいたいわかっていた。何度となく繰り返したシナリオだ。本当は目を通したくなんてなかった。

 「別れましょう」

 そこに書かれていたを口に出す。霞む目で何度もまばたきを繰り返してみても、眩しいディスプレイに文章は浮かび上がることも沈み込むこともない。その潔い完結した文章はとても彼女らしいと思った。

 ディスプレイの右上には、23:55と表示されていた。やはり、日付が変わろうとしている。だが、まだ日付は変わらない。

 たっぷり、六十秒数えてから返信の文字を打つ。

 ――今までごめんね

 それは本心だ。

 ――ありがとう

 と続ける。それは嘘だと思う。

 他になにかを打つべきかどうかと考えたが、何も浮かばなかった。それが僕と彼女の関係を象徴しているようで虚しかった。送信した。

 そして、すぐに僕は蓮見に向けてもメールを打つ。

 ――アクシデントはなにも起こりませんでした。終わりました。

 安堵と喪失感があった。胸の中で形を保っていた固形物が少しずつ溶け出していく感覚だ。何度も経験したことだ。いっそ麻痺してくれと願うがその感覚は何かの代償のように必ずやってきては、僕の身体を貪ろうとする。

 蓮見からすぐに返信がきた。報酬の支払いは今週中に済ましておくこと。今月中には新しい仕事を依頼したいこと。それらのテンプレート的な文章が何行かに渡って書かれていた。テンプレート的というよりも、返信の早さからして実際にテンプレートをコピー&ペーストしたようだった。

 最後の行まで読み飛ばす。二行の間隔が空いて、一言添えられていた。

 ――お疲れさま

 身体の芯の緊張はその一文でほぐれきったようだった。僕は携帯電話を閉じて、布団に潜る。再び携帯電話が鳴った。彼女からの返信だった。差出人だけ確認して中身は読まずに消去した。もう僕がやるべき仕事は残っていなかった。電源を切り、目を閉じる。

 「僕は君を永遠に愛しているよ。ありとあらゆる事が変わる世界で、僕はその気持ちを抱き続けるよ。君が僕を愛してくれる限り」

 何度となく、何人もの女性へと向けて使い古した言葉だが、それは間違いなく真実であった。もちろん、真実がすべて正しいということでもないけれど。

 強い眠気はすぐにやってきた。途切れ途切れになっていく意識の中で、宿命的なほどに正確無比な体内時計があと数秒で日付が変わろうとしていることを僕に伝えようとしていた。

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