02 行動せよ


 思えば、忙しいことをいいわけにあまり足を運ぶことができていなかった。

 雑居ビルのエレベーターを待ちながら、そんなことを思う。

 私はずっとフルートばかりをやってきて、話題の映画も、人気のコスメも、全然知らないでいる。毎日練習するのが当たり前だと思い、私はいつもフルートと一緒にいた。そういう意味では、こうやって違う音楽を聴きにくるきっかけ自体は悪くないのかもしれない。

 エレベーターを降りると、すぐに受付が目に入る。

 即席の、長机で作られた受付だ。

「高梨みどり 素敵な音楽を君に 38」

 と書かれた小さな黒板に目をやる。以前ライブを見にきた時は、たしか12だったと記憶している。この数字の積み重ねを思うと、私のいまの現状に恥ずかしさがこみ上げてくるようだった。

 私は支払いを済ませて、1ドリンク用のチケットを受け取った。

 

 扉を開くと、熱気と、息づかい、そしてきらめく音のしぶきがやってきた。

 普段はギター一本で戦っている彼女だけれど、今日はバックバンドもいる編成でのライブだった。会場は小さいため、奏者も観客も距離が近い。私は頭を下げながら、なんとかカウンターまで進み、カシスオレンジを注文した。そのカシスオレンジをちびちびと飲みながら、遠くから彼女の姿を追う。

 伸びやかな声は、会場全体を満たしていった。

 間奏になると、少しだけマイクから下がって、笑みをふりまいた。ときどき、左足をぽーんと投げ出すと、いっきに音楽が勢いづく。彼女のよさは、前のめりで歌ってもリズムが転ばないところだと私は思っている。

 そう、一緒にフルートを吹いていたときから。

 

 ライブが終わると、サポートメンバーや高梨さんのファンらしき人が、物品を購入したり歓談を楽しんだりしている。私は空いた席に座って、静かになるのを待った。ときどき、話しかけてくる人がいた。私は、ていねいにお辞儀をして、大丈夫ですというメッセージを送った。

 高梨さんが私に気づいたのは、もうほとんど人が出払ったあとだった。彼女は目を見開いて、私のところに近寄ってきた。

「おどろいた。こういう音楽は嫌いだって言っていたくせに」

「言ってないです!」

 私が大きな声を出したら、高梨さんは身体をかがめて笑いだした。

「でもほんとうに珍しいじゃんよ。部活もアルバイトもないなんてね」

 高梨さんの部活という単語に、私はわかりやすいくらいの反応をしたんだと思う。

「今日、ちょっとだけ打ち合せがあるんだけどね、すぐそこにファミリーレストランがあるでしょ。そこで時間つぶしていて。すぐにいくから」

 そういうと、高梨さんは手を少しあげて、足早にスタッフの方に戻っていった。


 ファミリーレストランでドリンクバーを頼み飲んでいると、おかわりをする前に高梨さんはやってきた。彼女は腹ぺこだといい、からあげといちごのパフェを注文した。

「相変わらず、偏った食生活ですね」と私が言うと、

「その笑顔を見たいからだよ」とおどけてみせた。

 年末の出来事はすでに伝えていたが、年を明けてからはしていない。私は、なるべく推測をいれないようにしながら、事実だけを伝えた。その情報で、高梨さんがどういう反応をするのか、知りたかったから。

「うーん」

 彼女はそう言ったきり、からあげを食べる手が止まった。

「どうしたんだろうね」

 彼女のその言葉に、私は反論した。

「別に、私に気を使わなくてもいいんです。高梨さんが思ったことを言ってくれれば」

「私は留年しているけど、退学はしてないんだよ」

「そんなの知ってますって。そうじゃなくて……」

 同級生だけれど、一つ年上の彼女。クラスはおろか、部活動でも仲良くする人はいない様子だった。だから、この人の魅力を知っているのは私だけだと、高校生の頃、それが私の誇りでもあった。この人になら、今日だって何を言われても、受け入れられると思うのだ。


「たしかにね、交通事故っていうのはウソだったと思う」

 私の心臓は、覚悟はしていたとはいえ、大きく揺さぶられた。

 こわばった私を見ながら、高梨さんは会場でみせた笑顔をする。

「そう言ってほしいって、顔に書いてあるよ」

 高梨さんは私のおでこを指さした。私は大きく息を吐いた。

 高梨さんは、こうやってちょっとずつからかいをいれて話すのが昔から好きだ。

「ウソかほんとうかなんて、私にはわからないよ。でもね、磯ちゃんにとって、何か大きな決断になったのは間違いないんじゃないかな。大学を辞めるってことはさ、大里君にももう会えないわけでしょう。ほんとうに、二人から去ることに決めたってことだ。やるな、磯ちゃん。そんなことができる人だとは思ってなかった」

「でも、こんな結論を、誰が望んでいると思いますか。いませんよね」

 私の声は、自然と大きくなった。

「誰って、磯ちゃんは望んでいるんだよ」

 私は大きく首を二回振った。目頭が熱くなるのを必死にこらえながら。

「こんな悲しい別れは、誰も望んでいないです」と声を振り絞った。

「うーん。でもね、ここまでくるとどうしようもないよね」

 しばらくの沈黙が訪れた。周りの喧騒が浮き上がっては消えていく。

 私は真正面を向いた。自然と手にちからが入る。

「今日はひとつ、お願いがあって来たんです」

 私はそう言ってから、ことの詳細を説明した。高梨さんは、最後のからあげを口に放り投げたあとは、溶けはじめているいちごのパフェに手につけず、私の話しを神妙な顔をうかべて聞いていた。


「ねえ、美紗都」

 私は高梨さんを見た。彼女もいつになく真剣な目をしている。私はばれないように息をのんだ。

「一直線すぎて見ていらんないよ」

「……大丈夫です。ちゃんと周りも見えてますから」

 高梨さんはふうと息を吐いた。

「そんなこと、実現できるわけないじゃない。それに、そんなことをしてなんの意味があるの?」

「やってみなければ、わからないじゃないですか。私がいま動かなかったら、何もかもが消えてなくなっちゃうんです。それに、高梨さんだって高校生の頃、よく言っていました。夢を描くことができれば、それは実現出来ることなんだって」

「それ、私が言ってんじゃなくて、ウォルト・ディズニーが言ってたんだよ」

「ほら! 有名な人が言ってるじゃないですか」

「ほらって。まあ別に協力することは簡単なんだけどさ、うーん、じゃあさ、一つだけ教えてよ」

「……なんですか」

「どうして、そこまでこだわるの?」

 すっと沈黙が訪れた。

「どうしてって、そんなの、磯ちゃんが好きだからに決まっているじゃないですか」

「ほんとうに、それだけ? 何かあるんでしょ。私にも言ってないことが」

 そう言い終わると、固まっている私を尻目に、高梨さんは溶けているパフェをスプーンですくいだした。

 これは、食べ終わる前に覚悟を決めろということなのだろう。

 深呼吸をした。

――この光景を、私は知っている。

 そう、私が高校生の頃、女の子を好きになることを高梨さんに伝えたときと同じ光景なのだ。私は当時を思い出しながら、どんな風に話そうかと自分に問いかける。


「私の恋愛感情を知っているのは、高梨さんだけですよね」

 高梨さんの食事が済み、しばらくしてから私はこう切り出した。

「いまは、違うけどね」と高梨さんは言った。

「まあ、そうですけど」私がふてくされてみせると、彼女は少し笑みをうかべて、「先、進めて」と言った。

「私の恋愛感情が人と違うって教えてくれたのは、大里君なんです」

 私がそういうと、高梨さんは小さくうなずいた。うなずいたものの、すぐに首を横に傾けた。

「どういうこと?」

「大里くんのことって、いままで説明したことありましたっけ」

「いや、小中と一緒だったことと、家が近所だってことくらいかな」

「大里くんて、私にとってヒーローだったんですよ」

「ヒーローってどういう意味?」

「文字通りの意味です。私小学生の頃から、すんごい身長高くって、小六でもう165センチはあったんですよ」

「そりゃすごいね。大木じゃん」

「そう、そうやっていじめてくる悪いやつを追っ払ってくれていたのが、大里くんです」

「ああ、なるほどね」

 高梨さんは、私の皮肉をうまく流して、次の話しを待っている。

「そんな大里くんを、当時私はどう感じていたと思いますか」

「そりゃ、ときめいちゃうほど嬉しいだろうね」

「そう、それなのに、すごく嬉しいはずなのに、何かしっくりこなかったんです」

 再び高梨さんに真剣さが戻ってきた。「それで、」と高梨さんは相槌をうった。

「中学校にあがって、2年生の合唱コンクールのときだから、秋でした。私、大里くんに告白されたんです」

「告白って、好きって言われたってこと?」

 私は、ちいさく頷いた。身体が少し熱い。この話を人にするのは、はじめてだったから。私は話を続けた。

「告白されて、とても嬉しかったんですよ。嬉しかったんですが、私はこのときも大里くんに恋愛感情が生まれなかったんです。なんでだろうって、すごい考えて。最初は幼馴染だからかなと思ったんですが、それではうまく説明がつかないんです。なかなか返事をしない私に痺れを切らした大里くんは、はやく答えをほしいって言いにきました。そのときに、気づいたんですよ」

 私は高梨さんの答えを待たずに続けた。

「男の子を好きにならないって、気づいちゃったんです」

 私は目のまえのホットティーを口に運んだ。もう、ぬるくて美味しくなかったけれど、身体を潤す必要があったから。

「ってことはさ、推測してみるとだ。美紗都は、大里くんのことを意識はしていたんだね?」

 私は、顔を赤くした。それを悟られるのが、恥ずかしかったから、いままでこの話を人にしたことがなかったのだ。

「頭では、理性では大里くんのことが好きだったんです。小学生の頃からそうだったし、中学生に進級してからもずっとです。当時の私にとって、どう考えても、他に好きになる男の人が思い浮かばなかった。でも、いざ告白されても、感情が動かなかったんです。最初は、私には恋愛感情がないんだって思ったんですよ。でも、よくよく考えてみて対象を広げてみたら、思い当たる人が見つかってきて……」

「大里くんが教えてくれたというよりかは、大里くんがきっかけになったってことだね」

「同じですよ」

 私はそういって、すべてを吐き出したことを反芻した。それは、なんともいえない気分であったが、高梨さんが私を受け入れてくれることに安堵する。

「とにかく、二人が大切だってことはわかったけど、それが今回の行動にどうつながるの?」

「私たち、離れ離れになるんですよ。バラバラです。きっと、もうそれは避けることができません。だったら、せめて、最期くらいいい思い出で終わりたいじゃないですか」

「それに、何か意味があるのかな?」

「あります」

 私は、間髪入れずに言った。

「きっと、反動はすごく大きいと思うよ。美紗都は行動できる人だ。それは、このあいだの年末の出来事もそうだし、今回の恋愛そのものがそうだね。だからこそ、反動が大きいんだよ。それ、ちゃんと分かってるの? しばらく、学校に行けなかったんでしょう。そういう跳ね返りがやってくるんだよ。それでも、いいの?」

「いいです」

「じゃあ、一つだけ、約束」

 高梨さんが人差し指を立てた。

「辛くなったら、また私のライブを見に来ること」

 高梨さんが笑顔をつくる。それにつられて、私も唇を緩めた。

「どうせ、今日もくるのに相当迷ってきたんでしょ。その行動力をちゃんと買ってあげるよ」

「ありがとう」

「今夜中にやっておけばいいよね。メールで送っておくよ。とびきりの、この世にたった一つしかない三重奏の譜面をね」


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