第5話
夕陽は、あの日のことをぽつりぽつりと、泣くこともなくゆっくりと丁寧に話していった。
私はそれをただ聴いていた。
彼を責めることもせず、ただひたすらに涙だけが頬を伝っていった。
話し終えると、部屋は再び静まり返った。
私はじっと動かない将棋の駒を見つめていた。
「ごめん」
不意に夕陽が言った。
私は首を横に振る。
「夕陽のせいじゃないよ」
そう言いながらも、私は彼の顔を見ることが出来なかった。
ずっと自分の王を見つめていた。
「あ......」
駒の側面に、何か書いてある。
私はそれを持ち上げて、側面の文字に目をやった。
『将棋盤の裏』
小さくそう書いてあった。
将棋盤の上に乗っている駒を全て箱に戻した。
夕陽は驚きながらも、何も言わなかった。
重い将棋盤をひっくり返すと、そこには小さな封筒が張り付いていた。
「これ......朝陽の字だ」
俺を愛せなかった世界へ、と少しだけ癖のある字で書いてあった。
私と夕陽は、封筒を開けて中の手紙に見入った。
『拝啓、俺を愛せなかった世界へ。
この手紙が、この世界の誰かに読まれているということは、俺がもうこの世界にいないということですね。
俺は、多分永くは生きることが出来なかったんです。
どの手筋を考えても、俺の負けが目に浮かぶのです。
俺は、ずっと誰かに負けてきました。
俺は、ずっと誰かと比べられてきました。
俺は、ずっと誰かの真似だと言われてきました。
それでよかったのです。
ずっとそれならば、よかったのです。
でも、気づけば、俺は自分を失うのが怖くなりました。
自分のままで、生きていきたかった。
金色に染めた髪は、負け続ける俺そのものでした。
だから、俺が髪を黒に染めた時、その時は、負け続けることを辞めた時なんです。
負けたくないことが出来てしまったんです。
誰にも、譲れないものが出来てしまったんです。
どうすればいいのか、分からなかった。
でも、あの人だけは、俺に言ったんです。
朝陽は、朝陽のままで、いいんだよ。
どんな俺でも、あの人だけは、本当の俺を見ていてくれていた。
あの人だけは、誰にも譲りたくなかった。
あの人を残して死ぬのは、心残りだけど。
最期に、俺が俺として生きれて、
ありのままの俺でいられて、
本当によかったです。
俺を愛せなかった世界へ。
俺も世界を愛せなかったけど、
あの人がいた世界は、ほんの少しだけ
好きになれた気がします。』
文字が涙で滲んでいく。
彼は、幸せだったのだろうか。
彼は、何を思っていたんだろうか。
今となっては分からない。
それでも、彼は。
負け続けることよりも、自分でいることを選んだのならば。
それは、彼にとって一番の幸福だったのかもしれない。
end.
完璧家の頓死 雨野 結 @yui_0105
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