異文化交流 1 広げてびっくり! 世界地図柄ハンカチ
和彦は半袖ポロシャツ&薄手の長ズボンな完全夏用制服から、私服に着替えて一息つくと、学習机の上に購入した南北六〇センチ、東西八〇センチサイズの世界地図柄ハンカチを敷いてみた。
立体感もあるし、ハンカチとして使うのが勿体ないくらいカッコいい柄だな。壁に飾ろうかな。
そのあと椅子に腰掛け、感心気味に眺めていると、
予期せぬ出来事が――。
「あ~、よく寝た♪ そろそろ日没だね」
どこからか、聞きなれぬ女の子の声が聞こえて来たのだ。
「何だ? 今の声」
和彦は不思議に思い、周囲をきょろきょろ見渡す。
耳元で聞こえた気がするんだけど、誰もいないよな?
少しドキッとしながらそう思った直後、
「うっ、うわわわわわぁ!」
和彦はあっと驚き、口を縦に大きく開けて絶叫した。
椅子から転げ落ちそうにもなった。
突如、日干し煉瓦の住居ミニチュアが地図上のエジプト付近に浮かび上がり、中からその地の名物のムサカらしきお料理が飛び出て、背丈十数センチの小さな女の子に変身するや否や、普通の人間サイズまで巨大化したのだ。
ガラビアと呼ばれる青地に太目縞模様の刺繍が施されたワンピース型の民族衣装を身に纏い、つぶらなグレーの瞳ですらりとした体つき、背は和彦より少し高く、一六〇センチ台後半に見えた。
「アッサラームアライクム、フルササイーダ。ワタシ、エジプト料理のムサカだよ。高校一年生、十五歳なの♪ 今日からカズヒコくんちに民泊させてもらうね」
その女の子は太陽のような爽やかな笑顔を浮かべ、微妙な発音のアラビア語も交えて挨拶した。そのあと和彦の手を握り締めて来た。リアルなムサカの美味しそうな香りもこの子の体からぷんぷん放たれていた。
「あっ、暑い」
和彦の全身から汗が噴き出してくる。実際、この部屋の温度は急上昇し湿度は急低下していた。
「アナアーシファ。ワタシの体質なの」
そんな彼を見て、ムサカは嬉しそうににこにこ微笑む。
続いて、ログハウスの住居ミニチュアがフィンランド付近に浮かび上がり、中からボルシチらしきお料理が飛び出て、小さな女の子に変身するや否や、普通の人間サイズ化したと同時に室温は急低下した。
「さむっ!」
和彦はブルルッと震える。
「こんばんは。ヒュヴァーイルター。ドーブルイヴィエーチル。グクヴェル。この度は『エスニック・スイーツ・カフェ』開店記念品のオリジナル世界地図柄ハンカチ、全生産量三千枚のうち、たった一枚しかないミナ達世界の料理擬人化ファミリー付きをご購入下さり、誠にありがとうございます。と共におめでとうございます。ミナはロシア料理のボルシチと申します。日本では北海道が一番好きで、北海道弁も覚えちゃいました。八年生、日本で言う中学二年生な十三歳です。今後、末永くよろしくお願い致します」
北欧&ロシアの少数民族サーミの色彩豊かな民族衣装『コルト』姿。グリーンの瞳に黒縁の丸眼鏡をかけ、胸の辺りまで伸びた赤ワインのような色の髪をモミの葉っぱ付きりぼんで飾り、背丈は一五〇センチ台前半くらい。和彦に向かってフィンランド語、ロシア語に加え、スウェーデン語かノルウェー語かも交えておっとりとした口調で挨拶して来た。
さらにアメリカのテキサス州付近に、レトロな感じの木造住宅のミニチュアも浮かび上がって中からブリトーらしきお料理が飛び出しまたも女の子の姿に。
「なんか、息苦しくなって来た」
と和彦は感じる。実際、その子が普通の人間サイズになったと同時に気圧は急低下した。
「Buenas noches! 和彦君。わたくし、メキシコ風アメリカ料理、テクス・メクス料理のブリトー・サルサ・ベルデ。十一年生、日本なら高二な十七歳よ」
背丈は一六〇センチくらい。セクシーな小麦色の肌、面長でつぶらなブラウンの瞳、トウモロコシ色な髪をポニーテールに束ね、ベージュのテンガロンハットを被り、首に赤いネッカチーフを巻き、オレンジのウェスタンシャツを身に纏い、腰にガンベルトを携え、インディゴブルーのジーンズの上に黒のチャップスを装着し、茶色いウェスタンブーツを履いていて、西部劇に出てくるカウボーイ(この場合カウガール?)風の格好をしていた。
「えっ、あっ、どっ、どうも。おっ、おっ、俺、とうとうアニメの世界と現実の世界との区別が付かなくなってしまったのか?」
和彦は当然のように戸惑う。
「アニメの世界じゃないよ。現実だよ。Ciao!」
「アロ~ハ アヒアヒ♪」
背後からまた聞きなれぬ二人の女の子の声がした。と同時にこの部屋は半袖長ズボン姿な和彦にとって程よい温度と気圧と湿度になった。
地図上のイタリアとサモア付近には、白壁に円錐形の石積み屋根が載せられた住居と、ファレと呼ばれるヤシで出来た住居のミニチュアが浮かび上がっていた。
「Mi chiamo Panna Cotta.Sono di Italia.イタリア語じゃ分からないかな? イタリアンスイーツのパンナコッタです。日本で一番好きな地域は瀬戸内です。スコーラ・エレメンターレの四年生、九歳です。イタリアの小学校は五年制だよ。今日からはずっと和彦お兄ちゃんちで民泊するね。このハンカチはどこでもドアみたいになってて、これに飛び込めばすぐに故郷に帰れるの。でもそこに戻ってもハンカチは和彦お兄ちゃんちにあるから、民泊には変わりないよね」
この子はマッシュルームカットにしたカラメルソース色の髪を、チャービルの葉っぱといちごのチャームを付けたダブルりぼんで飾り付けていた。丸っこいお顔とくりくりしたつぶらな瞳。背丈は一三〇センチくらい。パンネッロと呼ばれる肩掛けと、色彩豊かな刺繍が施された民族衣装を身に纏っていた。
「アタシ、フィリピン発祥で日本でもお馴染みなハワイアンスイーツのハロハロなのだ。オアフ島出身だけど、今はアタシのマクアヒネの生まれ故郷サモアのトゥートゥーのおウチに滞在中だよ。ちなみにアタシのマクアヒネは、生魚をココナッツミルクで和えたサモア料理『オカ』が擬人化した女性って設定なのだ。日本なら中一な七年生、十二歳。よろしくね♪ E(エ)・カズヒコ」
ハワイ語の呼びかけ表現を使って来たこちらの子は、南国育ちらしいマカダミアナッツ色の肌。セミロングなミルク色の髪を赤いハイビスカスのお花チャーム付きりぼんでパイナップル風に束ね、四角顔でコナコーヒー色の瞳、背丈は一四〇センチ台後半くらい。青系のプルメリア柄ムームーを身に纏っていた。
なっ、なんでこんなことが、起こってるんだ?
和彦は目の前で次々と起こった超常現象にただただ唖然とするばかり。
今、住居ミニチュアは全て引っ込んで見えなくなっていた。
ムサカ以外の世界の料理キャラ達からも、キャラ名と同じお料理の香りが放たれていた。
「絶対、夢だよな?」
とりあえず右手をゆっくりと自分のほっぺたへ動かし、ぎゅーっと強くつねってみる。
「いってぇっ!」
痛かった。
現実……だったらしい。
「嘘だろ?」
まだ和彦は、この状況を信じられなかった。
「どないしたん和彦? すごい大声出して」
ガチャリと部屋の扉が開かれる。たった今帰宅した雪乃が入って来たわけだ。
「ねっ、ねっ、姉ちゃん。さっ、さっき、このハンカチから、世界の住居のミニチュアが浮かび上がって来て、中からご当地の料理が出て来て外国人の女の子に変身したんだ。ほらここにっ……あっ、あれ?」
和彦は強張った表情で声をやや震わせながら伝えたものの、
「誰もおらへんやん」
雪乃にきょとんとした表情で突っ込まれてしまう。
「いや、さっきいたんだけど、おっかしいな」
和彦は机上に敷いたハンカチを、訝しげな表情を浮かべて見つめる。料理の香りもすっかり消えていた。
「和彦ったら、いくらユニークな柄のハンカチやからって世界の住居のミニチュアと女の子が飛び出してくるなんてマジあり得んし。アニメの世界と現実の世界との区別はちゃんと付けなきゃダメよー。うち、あんたより遥かにアニメの世界にどっぷり嵌っとるけど、現実の世界との区別はちゃーんとついとるで」
雪乃はくすくす笑ってくる。
「いや、俺もちゃんとついてるんだけど」
「確かにお○ん○んはちゃんとついとるよね」
「……今そういう話じゃないんだけど」
和彦が困惑顔でこう言った直後、
「和彦ぉー、雪乃ぉー、夕飯出来たでー」
階段下から母の叫び声が聞こえてくる。
「今行くぅー。和彦もはよおいでよ」
雪乃はすぐにこの部屋から出て、ダイニングの方へ向かっていった。
「やっぱ、気のせい、だよな?」
和彦はこう呟いてハハハッと笑う。
次の瞬間、
「気のせいではありませんよ、和彦さん」
世界地図上のラップランド付近から、ログハウスの住居ミニチュアが浮かび上がり中からボルシチが出て来てまたも人間サイズ化し特有の香りを漂わせた。
「うわぁっ!」
和彦は反射的に仰け反る。
「また驚かせてしまってアンテークシ。というか、こんなになまら驚かれるとは思いませんでした」
ボルシチはてへりと笑う。
「驚くに決まってるだろ」
和彦はごもっともな意見を述べた。
他の四人も住居が浮かび上がった次の瞬間に中から出て来て先ほどの姿へ。
「お部屋の様子を見て、カズヒコくんは萌え系のアニメが大好きな男の子なんだなぁって判断したの。これならワタシ達が登場して巨大化してもごく普通に受け入れてくれるかなぁと思って♪」
ムサカはにこにこ顔で伝えた。
「和彦さんのお姉さんが、ミナ達が飛び出てくる姿を見たら腰を抜かすかと思いまして、とっさにハンカチ内に戻りました」
ボルシチはゆったりとした口調で語る。
「俺だって相当驚いたよ」
「まあまあE・カズヒコ、普段日本に住んでる人がハワイ行ったら非日常的な光景が広がってることだし、素直に受け入れなよ」
ハロハロはにこにこ笑いながら言った。
「受け入れろと言われても……ところで、なんで俺の名前知ってるの?」
「声聞こえてたもん。ガールフレンドのサクラコちゃんって名前からして和風な感じの子と仲睦まじくショッピング楽しんでたね。ちなみにカズヒコくんのお姉ちゃんの名前はユキノちゃんだね。さっきもウンムの叫び声から分かったけど」
「……そういうことか。桜子ちゃんはガールフレンドじゃなくて、幼馴染なんだけど」
「そんなこと言って。将来は同じ家族、アーイラになるんでしょ。ワタシ達もみんな出身地は違うけど、五人姉妹だってデザイナーさんは設定してくれたよ。人類みな兄弟姉妹だもんね。ちなみにワタシはアフリカ系で砂漠属性、パンナコッタちゃんは南欧系で温帯属性、ブリトーちゃんは北米系で高山属性、ボルシチちゃんは北欧&ロシア系で冷帯寒帯属性、ハロハロちゃんはハワイ・オセアニア系で熱帯属性だよ。カズヒコくんはアジア系だからこのお部屋は一気にグローバルになったね」
「……それにしても、ただのハンカチから住居のミニチュアが浮かび上がって、中から世界の料理が出て来てさらに人間の女の子に擬人化するなんて、現代の科学技術的にあり得ないだろ」
「それが出来てしまったんだから、そう突っ込まれると反応に困っちゃうな」
ブリトーはちょっぴり困惑気味だ。
「まだ現実とは思えない」
和彦は半信半疑な面持ちで呟く。
「カズヒコくん、これは現実、ハキーカなんだよ」
ムサカはにこっと微笑む。
「あの、ムサカちゃん、俺、これが現実だってこと実感したいから、体、触っていいか?」
「ハサナン。でも、胸は変な気持ちになっちゃうからラー! だよ」
「分かった。頭にするよ」
和彦が恐る恐る、ムサカのセミロングウェーブな砂色の髪に手を触れようとしたら、
「和彦ぉー、いい加減夕飯食べやぁー。冷めてまうやろっ!」
母に扉を開けられた。
「わっ、分かったよ」
和彦はビクッと反応し、周囲を見渡す。
またもみんなハンカチ内に戻っていた。特有の香りも消えていた。
やっぱ、夢だよな?
和彦は首をかしげながら電気を消して部屋を出て、ダイニングへと向かっていった。
「和彦、世界地図柄のハンカチの迫力に圧倒させられたみたいだな」
高校物理教師を務める父は楽しそうに微笑む。
「うん、まあ。地形の立体感があってかなりリアルだったし」
和彦は苦笑いで答え、
絶対俺の見間違えだ。
心の中でこう確信して椅子に腰掛けた。
「和彦は想像力豊かやね」
隣に座る雪乃は上機嫌で春巻きを頬張っていたのだった。
「地理の授業は父さんも大好きだったな」
父は上機嫌でシューマイを頬張りながら呟く。雪乃の趣味もジャ○ーズやE○ILEなんかに嵌るよりは健全だろうってことで快く容認してくれている寛容で心優しいお方なのだ。
*
和彦は夕食後は自室には戻らず、まっすぐお風呂場へ。
洗面所兼脱衣場で服を脱ぐと、ハンドタオルを手に取って、いつもと変わらず大事な部分は隠さずにすっぽんぽんで浴室に入る。続いて風呂椅子に腰掛けて、シャンプーを押し出した。
髪の毛をゴシゴシこすっている最中だった。
「アロ~ハ、E・カズヒコ!」
突然そんな陽気な声がしたと思ったら、湯船がバシャァァァーッと飛沫を上げ、中からハロハロが飛び出して来たのだ。
「ぅおわあああぁぁーっ!」
和彦はびっくりして思わず仰け反る。もう少しで後ろのタイル壁に後頭部をぶつけるところだった。
「遊びに来ちゃった♪」
ハロハロは舌をぺろりと出して、てへっと笑う。
「どっ、どうやって、入って来たの?」
和彦は当然のように驚き顔。慌ててタオルで大事な部分を隠したのち質問してみた。
「ツェツェバエに変身してここまで浮遊して来たあと、ピラニアの稚魚に変身してお湯の中に隠れてたのだ。ピラニア状態でもこの湯の温度はさすがにきつかったぜ」
「そっ、そんな能力まで、使えるのか?」
「Ae! 五人の中で、変身能力を使える設定なのはこのアタシだけなんだぜ。えっへん!」
ハロハロは自慢げに、嬉しそうに答える。
「そっ、そうなのか……っていうか、せめてタオルは巻いてっ!」
和彦はハロハロがすっぽんぽんだったことに今頃気付き、とっさに目を覆った。
「E・カズヒコ、アタシ、まだまだお子様体型だから全然問題ないのに。E・カズヒコ照れ屋さんだな。ちなみにハワイでは昔、女は上半身裸おっぱい丸出しで過ごしてたらしいぜ。E・カズヒコ、前隠したから手をのけてみて」
「ほっ、本当?」
言われるままに、和彦は手をゆっくりと目から離した。
緑色の葉っぱがハロハロの肩の辺りから膝の上くらいにかけてしっかり巻かれていた。
「どう? 似合う?」
「うっ、うん。それより、どうやって一瞬で?」
「さっきはアタシの体の一部をバナナの葉っぱに変化させたのだ」
「そっ、そういうことか」
「ツェツェバエに変身したのもそうだけど、普通はこんなこと起り得ないでしょ。でもアタシ、同じ気候属性の熱帯関連の物ならハワイのみならずアマゾンや東南アジア、アフリカならではのにも自由自在に変身出来る設定になってるから。アタシ、当然のようにこんなのにも変身出来るのだ」
そう告げるとハロハロはパッと姿を消して、次の瞬間体長一メートルくらいの熱帯魚に変身した。そして湯船の中にポチャンッと落下する。
「手を突っ込んだら感電させられそうだな」
和彦は苦笑いで突っ込む。
デンキウナギだった。
「次はこいつになるよ」
本来の姿に戻るや今度は熱帯植物に変身し、床に落下した。
「くっさぁっ~。こんなにおいがするのか。ハロハロちゃん、早く元の姿に戻って」
腐った肉のような悪臭が立ち込め、和彦は思わず鼻を押さえる。
かの有名なラフレシアだった。
「次はこいつになるよ♪」
「うわわわぁっ!」
次に変身した動物の姿を見て、和彦は壁際へ逃げて怯える。
ジャガーだった。グァーッと鳴き声を上げ、和彦に容赦なく牙を向け威嚇して来た。
「E・カズヒコ、変身しても強さは人間の時と変わらないからびびる必要ないぜ。アタシ、変身以外にもこんな能力も使えるよ」
その一秒後には再び本来の姿に戻ったハロハロは、口からフゥゥゥーッと息を吐き出す。
それはたちまち黒い雲の形へと変化した。
その直後、
ドゴォォォーンッ!
と耳をつんざくような雷鳴を轟かせ、滝のような雨を和彦の頭上に降らせて来た。
「うをわぁぁぁーっ!」
和彦はさっき以上に大きく仰け反る。
――ゴツンッ!
「いってぇぇぇーっ!」
後頭部を後ろ壁にぶつけてしまった。
「スコールを再現してみたよ♪ なかなか迫力あったでしょ?」
ハロハロはにっこり笑顔で問う。
「危険過ぎるだろ」
ずぶ濡れにされた和彦は迷惑顔だ。
「雲量は少なかったし、安全性にはほとんど問題なかったと思うんだけどな。出身地と同じ気候帯なら、出身地以外で発生する特有の気象と自然現象でも再現出来る能力はアタシ達みんな持ってるよ」
ハロハロが無邪気な表情で伝えた直後、
「和彦ぉ、やけに騒がしいけど何かあったの?」
母が浴室扉のすぐそばまで迫ってくる。
「なっ、なんでもないよ」
和彦は慌てて返事した。
「そう? ならええけど」
母はちょっぴり不思議そうし、リビングへと戻っていく。
「入って来なくてよかったぜ。まあ入って来たところで瞬時に小さな虫になれるけどな。そんじゃあE・カズヒコ、アタシ、先にお部屋戻っておくね」
ハロハロはそう告げてウィンクし、体長一センチほどのツェツェバエに変身するとちょうど開かれている窓から外へ出て行った。
ツェツェバエって、俺やばくないか? アフリカ睡眠病引き起こすハエだろ。まあ、刺されてないから問題ないだろうけど。
ともあれ彼はいつもように湯船に浸かってゆったりくつろぐ。
その最中、浴室扉がガラガラッと開かれ、
「和彦、おじゃまするね♪」
雪乃がすっぽんぽんで入り込んで来た。
「姉ちゃん、入って来るなよ」
和彦は呆れ顔で雪乃の顔面目掛けて湯船のお湯をバシャッと食らわす。
「あつぅ! もう。ぶっかけるなんてひどいな和彦」
雪乃はぷくぅとふくれた。
「早く出て行って」
ばっちり彼の目に映った雪乃のそこそこ大きいおっぱいと恥部からはすぐに目を背けた。小六の夏頃からは実の姉ながら全裸姿や下着・水着姿にほんのちょっと性的意識が芽生えるようになってしまっていたのだ。
「今入ったばっかりやのにそれはないやろ。ねえ和彦、あの店にあったインドネシアのコテカ買ったろか?」
「いらねえ」
「高いけど、遠慮せんでもええんよ」
雪乃は仁王立ちして、にっこり笑顔で言う。
「……」
和彦は呆れ顔でハンドタオルを手に取り、あの部分に巻くと湯船から出て床に視線を向けたまま雪乃の横を通り過ぎ、浴室から出て行こうとするも、
「ほんまは触りたいくせに、見栄張らんでも」
背後からガシッと抱き着かれ、両腕ごと動きを封じられてしまった。雪乃のおっぱいのむにゅっとした感触が和彦の背中にじかに伝わってくる。恥部のもさっとした毛の感触もお尻にじかに伝わって来た。
「見栄なんか張ってないぞ」
「和彦の嘘つき。ここ硬くなって来てるやん」
さらにあの部分をタオル越しだが右手でしっかり握り締められ、揉み揉みされてしまった。
「それは姉ちゃんが触ってるからだろ。早く離せっ!」
和彦は焦り顔で体を捻って抵抗するも逃れられず。
「和彦、豊高の授業ついていくのけっこう大変やろ? 気分展開に今度の土曜、うちとUSJでデートせえへん?」
雪乃はウィンクをまじえて誘ってくる。
「嫌に決まってるだろ。いい加減離せって!」
「予想通りの反応やね。もう行っちゃっていいよ」
これにてようやく解放してもらえると、和彦は駆け足で脱衣場へ移動し浴室扉をピシャッと閉めた。
……姉ちゃんの変態行為には困ったものだな。
一呼吸置いたのち、洗濯籠に入った雪乃脱ぎたての下着類からは目を逸らしてバスタオルで体を拭いていく。
「和彦、うち今、ルノワールの『岩に座る浴女』のポーズ取ってるの。覗いてもええよ」
「……」
最中に雪乃から誘惑されるも和彦は無視。
もう一度、冷静に考えてみよう。さっき起きたことって、本当に、現実なのか? あり得ないだろ。ハンカチから世界の住居のミニチュアが浮かび上がって、中から女の子が出て来て人間サイズになったなんて。
そのあとパジャマを着込みながら、思い直してみる。
いるわけ、ないよな?
二階に上がると、恐る恐る、自屋の扉を開けてみた。
「エ コモ マイ。E・カズヒコ」
「和彦君、湯加減どうだった?」
「和彦さん、火照り具合から推測すると、サウナは使ってないようですね」
「カズヒコくん、オアシス気分味わえたかな?」
「さっきハロハロお姉ちゃんから聞いたんだけど、和彦お兄ちゃんちのお風呂の湯船って針葉樹の檜じゃないんだね」
――世界の料理キャラ達の姿が、しっかりと和彦の目に映った。消していったはずの電気もついていた。
キャラ名と同じお料理特有の香りもぷんぷん漂っていた。
床やローテーブル上にはみんなでパーティーを楽しんでいたのか、スペイン料理のパエリアや中華料理でお馴染みの北京ダック、インドネシア料理のナシゴレン、アイスランドやスカンジナビア三国で親しまれている魚料理グラブラックス、カナダ料理のプーティン、エチオピア料理のインジェラとドロワット、キューバ料理のトストーネ、オーストラリア発祥のお菓子ラミントン、フランス菓子のカヌレ、タイ料理のサークー・ガティ、インドの紅茶チャイなどなど世界の様々な地域の郷土料理の数々も並べられていた。
さらに、ボルシチの服装はロシアの民族衣装サラファンに、パンナコッタとハロハロの服装はベトナムの民族衣装アオザイに変わっていた。
「……その民族衣装、俺んちにあったっけ?」
和彦が目を丸くさせながら呟くと、
「わたくしがここから取り出したの。こんな風に」
ブリトーはそう伝えて、学習机の本立てに並べられてあった、和彦が学校で使用している地図帳を手に取りパラッと捲る。続いて開かれたページに手を添えると、なんと波打つ水面のように揺らいだのだ。
三秒ほどのち、ブリトーは何かを掴み上げた。
インドの民族衣装サリーだった。
「……あのう、俺、今日は疲れてるみたいだから、もう寝るね」
和彦は若干引き攣った表情で世界の料理キャラ達に向かってこう伝えると電気を消してベッドに上がり、布団にしっかりと潜り込んだ。
「ありゃまっ、もう寝るのか? E・カズヒコ」
「せっかくのワタシ達と出逢った記念日なんだから、夜更かししてワタシ達と国際交流しつつ世界の料理食べ比べパーティー楽しもうよ。カズヒコくんの分も残してるよ」
「あたし、和彦お兄ちゃんともっとお話したいのに。でもあたしももう眠いし、寝よう。ブォナノッテ和彦お兄ちゃん」
「和彦君、わたくし達が姿を現して特殊能力まで見せたせいで、急な環境変化に順応出来ず体調崩しちゃったのかしら?」
「そうかもしれませんよ、ブリトーさん。今宵はゆっくり寝させてあげましょう」
「カズヒコくん、ティスバフアラヘール! 明日からはワタシ達といっぱい国際交流しようね」
こうして世界の料理キャラ達は、世界地図上の適した位置に乗っかると同時に小さくなり、料理の形に戻るとすぐに元のハンカチ内へと引っ込んだ。使ったお皿や食器、残飯をみんなで協力してお片付けしてから。
……あれは、幻覚に違いないっ!
和彦はそう思い込むことにした。
☆
真夜中、三時頃。
「ねーえ、和彦お兄ちゃぁん」
どこからか、とろけるような声が聞こえてくる。
「――っ!」
和彦はハッと目を覚まし、ガバッと勢いよく上体を起こした。
「ん?」
瞬間、和彦は妙な気分を味わう。
左腕に、何か違和感があったのだ。
甘ぁい香りも漂っていた。
「和彦お兄ちゃん」
「この、声は?」
和彦は恐る恐るゆっくりと、顔を横に向けてみた。
「うわぉっ!」
思わず声を漏らす。
彼のすぐ隣、しかも同じベッド同じ布団の中に、パンナコッタがいたのだ。
「降水したいから、おトイレ付いて来て」
パンナコッタはほっぺたをいちごのように赤らめて、和彦の左袖を引っ張りながら照れくさそうに要求してくる。
「あっ、あの……」
俺は今、夢を見ているんだ。きっとそうだ、それ以外あり得ない。
和彦は自分自身にこう言い聞かせる。
「和彦お兄ちゃぁん、あたしの中のカラメルソースが溢れて漏れそう。もう我慢出来ないぃぃ」
パンナコッタは今にも泣き出しそうな表情になり、全身をプルプル震わせた。
これは夢だ、これは夢だ、夢に違いないっ!
けれども和彦は無視することに決めた。心の中でこう呟いて、再び布団に潜り込む。
ほどなく彼は二度目の眠りに付いた。
☆ ☆ ☆
朝、七時四〇分頃。
「うわあああああああーっ。うっ、嘘だろ……」
萌えキャライラスト入り目覚まし時計のとろけるようなボイスアラームと共に目覚めた和彦は、起き上がった直後に絶叫した。
布団とシーツが、おしっこまみれになっていたのだ。
「こっ、これって……」
和彦は布団とシーツを見下ろす。彼の着ているパジャマも、おしっこまみれだった。ちょうどズボンの前の部分が黄色いシミになっていた。もちろんにおいも併せて漂う。
どう、処理しよう。
冷や汗を流し、深刻そうな表情で悩んでいたその時、
「和彦、どうしたの? 朝からご近所迷惑な大声出して」
「うわっ、かっ、かっ、母さぁん!!」
折悪しく、ガチャリと扉が開かれ母が部屋に入り込んで来た。
「ん? 何これ? 和彦、ひょっとして、おねしょしたのぉ?」
母は和彦のズボン前をじーっと見つめながら、にんまり顔で問い詰めてくる。
「ちっ、違う! 断じて違うんだ母さん。これは、真夜中に、あの世界地図柄のハンカチから浮かび上がった世界の住居のミニチュアから出て来た小学生のイタリア人っぽい女の子が、俺の布団に入り込んで来てそれで、その……」
和彦は例のハンカチを指しながら必死に言い訳しようとする。
「和彦、アニメの世界と現実の世界を混合するんじゃないの」
母はくすっと笑った。
「ほっ、本当なんだって」
和彦は例のハンカチを指差しながら訴えてみた。
「はいはい、いいからはよ着替えなさい。桜子ちゃんもうすぐ来ちゃうわよ」
けれどもやはり無駄だった。母はにやにや笑いながら命令してくる。
「信じてくれよぉー」
和彦は悲しげな表情を浮かべながらパジャマを脱ぎ、下着も替えた。そして制服に着替え始める。
「和彦、それ、お母さんに貸しなさい」
「いいって! 俺があとで持っていくから」
「まあまあ和彦、遠慮せずに」
「あっ!」
あっという間に、パジャマ一式と下着を奪われてしまった。
「早めに洗濯しなきゃ、汚れ落ちにくくなるやろ」
母は穏やかな口調でそう告げて部屋から出て、意気揚々と階段を下りていく。
今、時刻は七時四七分。
まだ大丈夫だな。
和彦がそう思った直後、
ピンポーン♪
玄関チャイムが鳴ってしまった。
「おはようございまーす、和彦くん、おば様、雪乃ちゃん。今日は昨晩お祖母ちゃんちから届いたお野菜果物と水羊羹の詰め合わせをお裾分けするために、少し早めに来ちゃいました」
いつもより十分ほど早く、桜子が迎えに来たのだ。しかも桜子が玄関扉を開けたのと、雪乃が階段を降り切って玄関前に差し掛かったのとが同じタイミングだった。
「おはよう桜子ちゃん、今朝和彦ね。おねしょしちゃったのよ。これを見て」
母は嬉しそうに、桜子の目の前にレモン色に変色した和彦のパジャマをかざした。
「あらまぁ」
桜子は段ボール箱を両手に抱えたままやや前かがみになり、興味深そうにそれをじっと見つめる。
「どわああああああああっ、えっ、冤罪だぁぁぁーっ!」
和彦は慌てて階段を駆け下りながら、弁明する。
「和彦くん、恥ずかしがらなくても。たまにはこういうこともあるよ」
桜子は柔和な笑顔でフォローしてあげた。
「あの、桜子ちゃぁん、俺、やってないから。本当に」
知られてしまった和彦は、かなり沈んだ気分になる。
「和彦、はよ顔洗って朝ごはん食べて、学校行く準備しなさい」
母はにこにこ笑いながら命令する。
「わっ、分かったよ」
和彦はしょんぼりしながら洗面所へ向かっていった。
父は今日もいつも通り七時半前には既に家を出ていた。
和彦が顔を洗っている最中、
「おはよう和彦、おねしょしたんやってね。まあ気にせんとき。思春期っていうのは男の子も女の子も気を付けてても下着汚しちゃうことはよくあるからね」
雪乃は背後からにやにや笑いかけてくる。
「俺はおねしょしてないから。姉ちゃんだけは信じて欲しい」
和彦は悲しげな表情で訴える。
「うちは、信じてあげるよ」
雪乃は彼の心境を察したのか、爽やか笑顔でこう言ってくれた。
こんなちょっとしたハプニングがあったためか、普段より三分ほど遅れて桜子と和彦は家を出た。
桜子は移行期間だった先週にはすでに冬用セーラー服から完全夏用の半袖ポロシャツ&夏用セーラースカートに衣替えしていた。ちなみに男子用の冬服は紺の学ラン。伝統校らしく制服は男女とも古めかしいのだ。
雪乃は一コマ目から講義がある日でも和彦&桜子よりも遅く家を出ている。大学まで自転車で十分少々なのだ。
もし昨日の出来事が本当のことであれば、俺はおねしょをしていない。もし夢の中の出来事であったならば、俺はおねしょをしたことになってしまう。どっちがいいんだ? この場合。
和彦は通学路を早足で歩きながら葛藤する。
「あの、和彦くん。元気出して。おねしょのことはもう忘れちゃおう」
桜子に優しく励まされ、
「うん、そうだね」
和彦は穴があったら入りたい気分になった。
「ねえ和彦くん、あのハンカチ持って来た?」
「いやぁ、あれは、使うの勿体ないから部屋に飾ってあるよ」
「そっか。じゃあ、今日学校終わったら、和彦くんの部屋におじゃまするから見せてね」
「……うん。分かった」
あのハンカチから世界の住居ミニチュアが浮かび上がって、中から擬人化した世界の料理な女の子が出て来たなんて、桜子ちゃんに言っても信じてくれないだろうな。大丈夫? 最近疲れてない? って心配されそう。実際俺、高校受かってからますます夜更かしすることが増えて平均睡眠時間減ってるし。
そんな理由から、和彦はこの件は伝えないことにしておいた。
同じ頃、和彦のお部屋ではムサカ、パンナコッタ、ブリトー、ボルシチが飛び出して、部屋の中央付近に集まっていた。ハロハロだけはまだハンカチ内で睡眠中だ。
「パンナコッタちゃん、カズヒコくんのベッドをオアシスにしちゃったんだね」
「ミスクーズィ。暗くて、おばけが怖くて行けなかったの。和彦お兄ちゃんが帰って来たら謝らなきゃ」
しゅーんとなっていたパンナコッタを、ムサカは優しく慰めてあげる。
「パンナコッタちゃん、今夜からは、おトイレ行く時わたくしが付いていってあげるからね」
「グラーツィエ、ブリトーお姉ちゃん」
パンナコッタはブリトーの胸元にぎゅっと抱きついた。甘えん坊さんなようだ。
「寝小便を垂らしてしょんぼりするパンナコッタさん、なまらめんこいです」
ボルシチは我が子を見守るようにその様子を微笑ましく眺めていた。
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