エレベーター密室編(後編)
少し息が苦しいのだ。
大きく息をついて、その苦しさを解消して一度意味はないとわかっていながらも周りを見渡す。
そうだ、そこにあるはずの空気、酸素が薄くなっている。エレベーターの小さな箱の中、空気孔などは見当たらない。密室であったことに今気がついた。
まだ、大丈夫だ。
男は自分に言い聞かせる。いいことは自分がこの状態に早く気がついたことだ。
乗っている相手の女の子はそのことに気がついてもいないだろう。生きるために酸素が必要なんてことも知らないような子どもだ。
どうする、考える。このまま二人ともこの小さな箱の中で呼吸を続ければおそらくどんどんと苦しい状態になるはずだ。
ハタと思いついた。
いいことがあるじゃないか。
同じになった人間が力の弱い歳の低い女の子だ。簡単に組み伏せることができる。やはり俺はこれからの人間なんだ。
男は立ち上がると、底使ちゃんを蹴った。
エレベーターの角に黙って座っていた底使ちゃんは壁に背中を打ち付けて横に転がった。
底使ちゃんが男を睨む。
「カルネアデスの板って知っているか?」
そう言いながら、仰向けになっている底使ちゃんの上に跨って首に手をかけた。
「二人が死にそうになったときは一人を殺しても仕方ないという考え方だ」
男は自分の解釈を口にする。歪んだ解釈であることは自分でもわかっていたが仕方ないとも思っていた。
そうだ、生きるために自分より弱いものを犠牲にするのは仕方ないのだ。
底使ちゃんは息が苦しいというよりも、男の息が顔にかかるほど近くにあるのが気持ち悪くて暴れた。
底使ちゃんの腕が偶然に男のみぞおちに当たった。
うめき声を上げたが、男は底使ちゃんの体に跨ったまま動かなかった。それどころか怒りに任せて拳を固めて底使ちゃんのかわいい顔を殴った。それも何発もだ。
「俺は、これからなんだ! こんなところで、こんなところで!」
大声を上げながら男は底使ちゃんではなく、いつの間にかその先に見えている自分を今まで虐げていたものに対して拳を振るっていた。
「ハァ、ハァ、チクショウ、クソ、クソッ、死ね、オラァァァァ」
最後の方は訳が分からなくなり、呂律も回らないほどに喚きながら、底使ちゃんを繰り返し殴り続ける。
底使ちゃんの自分の顔を守っていた手が止まった。
エレベーターの床の上に底使ちゃんの小さな白い手の甲が落ちる。
底使ちゃんが自分に跨っている男を見ると、男は殴っていた腕を止め自分の首を両手で抑えるようにしている。顔色がどんどんと蒼白になっている。口を金魚のようにぱくぱくと動かしていた。見開いて焦点の合わない目で底使ちゃんの方を見下ろしている。
「そんなに動いたらそうなるでしょうに」
底使ちゃんはあきれるように言った。
途端に上に乗っていた男の体が糸が切れたように力を失くして底使ちゃんの上に倒れこんでくる。
底使ちゃんは器用に自分の体を畳んで、黒いローファーを履いた足を男の股の下から抜いて、そのまま男の体を蹴り飛ばした。エレベーターの壁に打ち付けられた体は小さく痙攣していたが、男の意識がないのは明らかだった。
「きっと酸素不足で頭が回っていなかったのね。いえ、知らなかったのかしら」
底使ちゃんは怜憫という感情がもっとも適切な口調で言う。
「人を殺すってエネルギーを使うのよ、もちろん酸素も」
<了>
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