山小屋の一室編(後編)
「今、俺が置いてきた男の、恋人がね」
小さく笑うように言った。
「先月の誕生日にね、そいつとその彼女がくれたんだよ。幼馴染みでね、いつも三人でいたんだ」
だからお揃いの色違いのダウンを買ったんだよ。
俺が緑、置いてきた男が青、彼女が赤。
「とっても仲がいいのね」
「そうでもないさ」
緑のダウンを着ている男は言った。
「今日も来る時に青と赤が大げんかして、三人の予定が結局男二人で登ることになっちまった。まあこんなことになったんだから来なくて、正解だったな」
緑が力なく笑った。
底使ちゃんは窓の外を見た。底使ちゃんが、来る時よりも天候は酷くなっていて、窓には白しか写っていない。
「俺は彼女と喧嘩なんかしたことない」
「そう、それは素晴らしいわ」
底使ちゃんは言った。
「そうかな」
男はそんなことないようと言わんばかりに顔は暗かった。
その理由を底使ちゃんはわからなかった。喧嘩をしないほうがいいはずだ。
「仲がいいのよ」
「違うんだ、俺は……」
緑の男は小刻みに震えた言葉を一度切った。
底使ちゃんは首をひねって、男が続きを言うのを待った。
男は一度、底使ちゃんのその無邪気に待つ顔を見て、口を開いた。
「俺はわざと置いてきたんだ」
男は懺悔する。
底使ちゃんにはなぜか告白しやすいのだ。
「こ、この山小屋があるのは知っていたんだ。でも確証はなかった、期待させてガッカリされるのが……、ああお前はいつもそうだと思われるのが怖かった」
「彼はいつもそんなことを言うの?」
「言わない」
「そう、でも思ったかもしれないわね」
人の心はわからない。そう底使ちゃんは知っている。
「別れた地点から、ちょっとだけ頑張ればここがあった。たぶんきっと少し無理をして一緒に来ることもできた。でも俺はそれをしなかった」
「でも、二人とも死ぬよりどちらかが助かったほうがいいでしょう?」
「それでも……言わなかった」
緑の男は相変わらず小刻みに震えながら膝の間で頭を垂れて俯いた。
そのまま言った。
「今でも、今からでも迎えに行けるんじゃないかと、考える。でも体は動かない。戻る道に確証はない、一寸先は雪だ」
「そうね」
窓の外を見ると、先ほどの吹雪よりは落ち着いたようだった。
底使ちゃんは山の天候は本当に変わりやすいのだと改めて知った。
「でもそれは言い訳だ、俺はあいつが事故で死んでしまえばいいと頭の片隅で思っている」
「どうして?」
「俺は……彼女が好きなんだ」
「そう」
「あいつがいなければ、とずっとそう考えていた。そして俺は今、ほんの少し死の危険を冒して二人で助かる道より一人で助かる道を選んだ」
緑がそう言った。
「どうしてその彼が死んだら彼女はあなたのものになるの?」
底使ちゃんは訊いた。
「どうしてって……」
その瞬間だけ、小刻みに震えていた体がぴたりと止まり、男は言葉を濁した。
しばらく黙っていた男がつぶやく。
「俺は彼女になんと言うつもりだったんだろうな」
「そうね」
そのあと、ずいぶんと長い沈黙が続いた。
底使ちゃんは黙っていた。
底使ちゃんは沈黙を怖がらないのだ。
緑の男は考え込むように膝に頭を押し込んでいる。
窓の外の景色は時間の経過とともに穏やかになっていた。
彼の心のようね、底使ちゃんは詩人みたいなことを思った。
「ねえ、天気良くなったみたい」
答えはなかった。
底使ちゃんは窓の外を見た。
ずっと下の方にオレンジ色の服を着た集団が見えた。
救助隊だ。
その最後の点に一人、違う色の人間がいた。
青のダウンを着た男が懸命におそらく緑の男の名だろう、一生懸命を叫んでいる。
あの真剣な声を聞くことができれば、緑は死ぬことはなかったのだろうか。
底使ちゃんは小さく考えたが、仕方ないとも思った。
<了>
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