社長室編(後編)
コンコンと社長室の扉をノックする音が鳴った。
ノックする音が鳴った瞬間、底使ちゃんは空気を読んで姿を見えなくした。
底使ちゃんはそういうことは朝飯前にできるのだ。
それを認めた初老の男は小さく息を飲んだが、すぐにノックをされた扉に向き直り、ノブに手をかけた。
扉を開けた先には夜の社長室には不釣り合いな学ランを着ている少年が立っている。
年の頃は中学生といったところだろう。ポケットに手を突っ込んでいる。
黒い短髪につり上がった目をしていて、そしてなるほど、確かに鼻の形が男にそっくりだった。
「よく来たね、さあ座って」
男は笑顔で迎え入れた。少年は何もかもが気に入らないといわんばかりに不貞腐れた表情で入ると、一人用のソファにどっかりと腰掛けた。姿を消している底使ちゃんの右斜め前だ。
「使いの者から聞いた通りに来れば誰にも見つからず簡単に来れただろう?」
ああ、と短く少年が答えた。
どうやら、ここまでの道は男が教えたようだった。しかも人に見つからないように。
底使ちゃんは少し不思議に思った。
「あんたは座らないのか」
また短く少年は言って、鋭い目で男を睨んだ。
「いいや、私は立っているよ。すまない。君と面と向き合う勇気がない私を許してくれ」
男はそう言うとテーブル越しの向かいのソファの後ろで立ち止まった。
「学校はどうかね?」
男が言って、すぐに首を振って続けた。
「いいや、やめよう。こんな話をしに来たんじゃないんだろうから」
「どうして、お袋を・・・」
少年が安定していない声で呟くように言った。
「仕方なかったんだ。彼女が遠くの地で病気になっていることも知らなかった」
「金さえあれば治った。あんたならどうにかできたはずだ」
「ああ……本当にすまない」
嘆くように初老の男が声を出す。
「私は臆病者なんだ。だから君のお母さんに連絡を取って、妻に知られるのが怖かった。許してくれ」
「許すと思ってるのか!」
少年が怒鳴った
「本当にすまない。私はここまで生きて、君と出会って、ようやく大事なものが何であるのか気が付いたんだ」
落ち着いた、よく通る低い声で初老の男が言った。
ゆっくりと少年の座っている方に歩いて向かった。
「そんなことを言っても、もうお袋は帰ってこないっ!」
少年が怒鳴って立ち上がった。学ランのポケットに手を入れて中のものを取り出した。
小さなナイフだった。少年が初老の男にその先を向けた瞬間、少年が驚いたように目を見開いた。そしてゆっくりと自分の胸に刺さった大振りのナイフを見た。
「本当にすまないね」
初老の男が胸にしっかりと突き刺したナイフから手を離した。少年はしばらく震えていたが、その内に後ろによろめいて尻餅をついた。見開いた目で初老の男を見上げる。
「君の出現は私にはっきりと自覚させてくれた。大事なものはやはり、自分の今の地位だということだ。ありがとう」
初老の男は特に感情もない顔で少年を見下ろしながら言った。
しばらくして、少年は動かなくなった。
初老の男は机の上の電話を取り、誰かに死体の処理を注文している。
消えていた底使ちゃんが姿を現して少年を見つめた。
もう動かない。血が長い毛の床に染み込んでいる。
底使ちゃんの後ろから、電話を置いた初老の男が尋ねた。
「私を軽蔑するかね?」
「よくわからないわ」
底使ちゃんは少年を見下ろしながらつぶやいた。
「どうして彼を殺す必要があったの?」
「彼の存在は私の生活に邪魔だったからだ」
「そう」
底使ちゃんは短く続けた。
「誰かの邪魔にならない人間がいるの?」
初老の男が口を開く前に底使ちゃんの姿は消えていた。
<了>
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます