社長室編(中編)
「わたしは底使ちゃん、死を見に来たの」
底使ちゃんは自分の後ろ、扉の横に隠れるようにしていた男の方を振り返りながら、小さく呟くように言った。
「そうかい」
突然の訪問者に対して初老の男は手を後ろ手にしたまま微笑みながら答えた。
年は五十手前、少し白髪が混じってはいるがツヤのある髪をオールバックにし、見ただけで生地の良さが既成のものではないとわかるスーツをまっすぐときれいな姿勢で着こなしている。
この紳士には、小さな女の子がすでにこの世のものとはならざるものだということがわかっていた。
底使ちゃんを見ることができる者は大抵すぐにそれがわかる。
「もうすぐここで人が死ぬわ」
底使ちゃんは男から目を離し、部屋をぐるりと見回した。
その暗い部屋の中に男と底使ちゃん以外に、人の姿はない。
「ああ、そうだろうね」
男は微笑んだまま答えた。
「これからここに人が来ることになっているんだよ」
「そう」
男は壁にかかっていた時計を見ながら言った。
「しかし、まだ少し時間があるようだ。それまで話をしてもいいかな」
「座っても?」
底使ちゃんはふかふかそうなソファを見て言った。
「もちろん」
底使ちゃんは小さな歩みでソファに向かうと、真ん中に座る。
男は底使ちゃんが座るのを待って口を開いた。
「私はずいぶんと長く生きた。ここに来るまでに多くのものを犠牲にしてきたんだ。愛する人間も自分のために選んだ。いや、選んだという表現は正しくないな。ともかくどうしようもない高慢な女の婿に行き、やっとの思いでこの地位を手にいれた。この安定した地位を得るためなら汚いことはなんでもやった」
その数々の過去をどう思っているのか、明確に分かるほどに男の顔は暗かった。
「一度だけ、結婚した後、関係を持った部下の女がいた。その時だけは打算ではない、幸福な時間だったよ。それもすぐに高慢な嫁にばれそうになったので慌てて地方に転勤にしたがね」
小さく鼻息を出して続けた。
「つい先日だ。ある少年が私を訪ねてきた。中学生だ。いや訪ねてきたというよりも文句を言いにきたという方が正しいだろう。彼は私の息子だと言った。その時の女との子供だと。たしかに顔がその女によく似ていたし、鼻の形は私が鏡で見ているものと瓜二つだった」
底使ちゃんはソファでの腰のあり方が落ち着かないようでしきりに体を揺すっている。
「その時に周りにいたのが私に近しい者だったから良かったが、彼が言う数々の言葉が一つでもあの高慢で嫉妬深い連れ合いにバレたら私は酷い目にあっただろうね」
冗談なのか、少しおどけたように男は言った。
底使ちゃんは特に面白いとは思わなかったので何も反応しなかった。
「彼は母親を無下にした私を恨んでいた。どうやらかなり酷い生活を強いられていたらしい。彼の怒りはとても大きい、私が最初に彼と会った時に彼の母親に対して侮蔑的な発言をしてしまったことにも起因するがね。え、なんて言ったかだって? それはそう、あまりよく覚えていないが売女だとか金はある程度くれてやったはずだとか、まあそういった類のことだ。私もこの歳になってもまだ自分の驚くことがあると取り乱してしまうらしい。今は冷静になり、そんな風に思ってはいないと誓えるんだがね。まったく口とは恐ろしいものだね」
男はどうやら自分でもわかっていないほどに興奮していた。声の熱が上がっていた。
「それで?」
底使ちゃんが一言、小さく言った。
男は水をかけられたように、興奮して体を少し前のめりにしていた体を整え、背筋を伸ばした後、咳払いを一つした。
「ああ、私は受け入れようと思うのだ。その彼の怒りは当然もっともだと思う。その怒りが晴れることはないだろうと、私は信じている。ゆえに私は彼と今夜ここで会う約束を取り付けたんだ」
「そう」
男は時計を見た。
「彼はきっと私を殺しにくる」
コンコンと社長室の扉をノックする音が鳴った。
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