第6話 彼女だけがいない町6

 ■彼女だけがいない町6




「………はぁ、はぁはぁ」


翡翠が焼却炉の場所から逃げ出してから既に二時間が経っていた。

いや、正確には一時間かもしれないし、三十分も経ってないかもしれない、初めて味わう恐怖と言う時間は翡翠の時間間隔を狂わせていた。


「うぅ………」


翡翠は左腕を庇いながら走る。


着ている着物は所々が切り裂かれていた。

左の肩と右足からは血が出ている。

浮浪者の男はどこからか刃物を出すと、翡翠の体を切り刻んだのだ。


すぐに逃げ出したが、途中でまた見つかり右足を切られた。

右足を切られた時に思いっきり転びその時に殺されると思ったが、

そこからもどうにか逃げ出せた。

奇跡的に抜け出せた。


………違う、言い直そう、それは奇跡でもなんでもない。


ただ、単純に浮浪者の男が翡翠を生かして楽しんでいるだけである。

男が本気を出せば出会った瞬間に殺すこともできたはずだ。

わざわざ声を掛けてきたのは翡翠を獲物として見ていたためだ。

そうに違いない。


痛む右足を抑えて、屋根の下にうずくまっていると、

足音が聞こえた。


びくっと翡翠の肩が跳ね上がる。


「あー、今日も飲んじまった金もないってのによ………ヒック」


「お前、ほどほどにしとけよ………結婚したばかりだっていうのによ」


浮浪者の男………ではない。

夜の帳が落ちたばかりだというのに飲んだくれた一人とそれを介護する二人組の男達だ。


翡翠は立ち上がり男たちに駆け寄っていく。


「助けてください!!!襲われているんですっ!!!」


「なんでぇなんでぇ、嫁が怖くて酒が飲めるかっての………ヒック」


「愛想付かれても知らねえぞ………はぁ、家に届ける俺の身にもなってくれよな」


必死に叫ぶが翡翠の声は届かない。


「お願いします!!!助けて!!!助けてよぉっ!!!」


翡翠は必死に男たちの服を掴み、引き留めようとするが、

男達はお構いなしに歩いていく。


「おっとと、なんだなんだ。急に重くなったような………

 俺も酔いが回っちまったか?」


「どんなに叫んだって助けは来やしないよ」


聞き覚えのある声にひっ!と小さく呻き翡翠は身を竦める。

背中には血の様に真っ赤な翼を生やし、空から浮浪者の男が降りてくる所だった。


「怪奇は怪奇にしか見えない

 そういう風に出来ているんだ」


男の言葉の通りなのだろう、酔っぱらった男性達は空から降りてきた異様な者にも気付かずに千鳥足で立ち去っていく。


「それにどうやらお前の怪奇は

「存在を隠す」という力が強い様に見える。

 怪奇の特性とその力が合わさるとどうなるだろうねぇ?」


ひひっ、と浮浪者の男は笑う。


「どうりで最近までお前の存在に気付かなかったわけだ。

 ここ数日で一瞬でも力が消える瞬間があったか?」


浮浪者の男の言葉にすぐさま思い当たるのは、

凜紅との出来事、きっとあのことがこの男に気付かれる原因となったのだ。


浮浪者の男はニタニタと笑いながら言葉を続ける。


「この町で俺が喰っていたのは人間の女達だったから、

 静かに殺さないといけなかった。

 女が騒いで良くない者を呼び寄せると、めんどくさいからな」


「けどなぁ、その鬱憤もこんな形で晴れるとは

 人生は分からないものよ、ひひひ」


男の言葉に翡翠は確信した。

この町で起きていた、行方不明の人間を殺していた犯人はこいつなのだ。

こいつが宿のみんなを殺したのだ。


翡翠は浮浪者の男を睨む。


「ひひ、良いね良いね。

 俺はそういう目が見たいんだよ………

 そういう真っ直ぐな目が怯える姿に変わるのがなぁ!」


「そら、逃げろ!!!

 殺されちまうぞ!!!」


浮浪者の男が刃物を振りかぶり翡翠に切りつける。

翡翠は背中を向け身を庇うが逃げ出そうとしない。


「そらぁっ!!!」


翡翠の背中が裂けまた一つ切り傷が増える。

それでも、翡翠は逃げようとしない。


「どうしたぁ!!!さっさと鼠の様に逃げろっ!!!」


また一つ切り傷が増える。

それでも、それでも翡翠は逃げなかった。


この男に殺されるのはもう、しょうがないことだと翡翠は思っていた、

この世界の人々は翡翠の存在に気付いてくれないのだから、

仕方がないことなのだ。

ここで起きていることを目の辺りにしても見えていないのなら、それはもう、しょうがない。


………それなら、せめてこの男が楽しむような真似はしないと、

心に決めた。


………凜紅と会ったことが原因で見つかったということも、

気にしないことに決めた。


あの時は、自分が見える人が居るという驚きが大きすぎて、

自分と言葉を交わしてくれるという驚きが大きすぎて、

分からなかったけど、


確かに、あの時、自分は心の底から楽しいと思えた。それに今気づいた。


ならばせめて、楽しい記憶を思い出しながら死んでしまおうと翡翠は思った。


「おいっ!!!

 いつまでも背中を向けるんじゃねぇ!!!」


浮浪者の男に頭を掴まれ、

強引に翡翠の顔が正面を向かされる。


「………………ちっ!気にいらねぇ!」


翡翠の目はどこまでも真っ直ぐだった。

浮浪者の男はこれまで殺してきた女を思い浮かべる。

散々痛めつけた女にも同じような目をしながら死んだ女がいた。


そういう女は決まって、男が求める反応は得られないまま死んでいった。


「………おい、お前はこのまま死んでもいいのか?」


男が語りかけるが、翡翠の目は変わらない。


「………誰にも覚えられないまま息絶えるのだぞ?」


翡翠の目は変わらない。


小さく舌打ちした後、男は右手を振りかぶる。


「じゃ、死ねや」


翡翠の目に映ったのは………


「死ぬのは……お前だッ!!!」


はっ!として後ろを振り向いた浮浪者の男の右腕を切り飛ばす、

刀を持った凜紅の姿だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る