どこでもないここで(3/8)
カウンターの中から平井さんが早口で告げ、テーブルを整えていた奥さんが「ヒロコちゃん、がっかり?」と、いたずらっ子みたいな目を向けた。
長谷川さんは、平井さんが勤めていた商社の現役社員で、3ヵ月前に朗読会にデビューした。コーヒーより紅茶が似合いそうな彫りの深い顔で、穏やかな話し方に利発さが見え隠れする。ついでに言えば、わたしより学年が4つ上の独身で、まぁ世間的にはイイ男の部類だろう。
長谷川さんは、会社の先輩である平井さんのことを「モーさん」と親しく呼ぶ一方、女性陣には必要以上の丁寧語を使うのがしっくりこないけど、上から目線の男よりよっぽどいい。「モーさん」の理由は、映画の「セブン」でブラッド・ピットの相棒役だったモーガンなんとかって俳優に平井さんの風貌が似ているから……でも、長谷川さんはブラピほどイケメンではない。
いつもの席にわたしが腰かけると、玄関の鈴がチリンと鳴って、もう一人のメンバーがやって来た。マユミさんだ。
「ひとりいないだけで、随分こじんまりしちゃうわね」
長谷川さんの欠席を知ったマユミさんは、そう言いながらハードカバーの本をエコバックから取り出し、ネックレスの位置を正した。シルバーのクロスが光の加減でキラリと光る。
マユミさんは中学校の国語教師で、子育てと仕事を両立させた年上の女性。教育者らしい芯のある眼差しに加え、物腰の柔らかさと屈託のない笑顔が印象的な人だ。
やがて、平井さんの淹れたキリマンジャロを奥さんがテーブルに運び、長針がXIIを過ぎたところで朗読会がスタートした。
わたしの前にマユミさんが、右隣りに奥さんが座り、平井さんは体を半身にしてカウンターの椅子に腰かけている。窓側の長谷川さんの指定席には、隣家の緑をすり抜けてきた淡い陽射しが留まり、お店に穴がぽっかり空いた感じだった。
ぽっかりでひっそり……真夜中のプラットホームみたいに空気を冷たく感じて、わたしは小さく息をついた。
「選んだのは、サリンジャーの 『二人で愛し合うならば』という短編です」
栞を挟んだページを開き、今日の朗読当番のマユミさんが幹事の平井さんをちらりと見る。
[実はあんまり話すほどのことでもないんだけど、つまり、たいして大事なこととかなんとかいうんじゃないんだけど]
物語が静かに始まる。
奥さんとわたしはほとんど身動きせずに集中し、小説の世界に入っていった。
音声以外は何の物音もなく、時間も空間も、それに聞き手であるわたしたち3人の鼓動さえも、マユミさんに支配されている。
句読点で正しく文章を区切り、セリフ部分に多少の感情を入れる読み方は、さすが、国語の先生。
物語は、若い夫婦のささやかな諍いを描いたもので、さほどドラマチックな展開はなかったけど、キリマンジャロの酸味に気づかないくらい、わたしは朗読に引き込まれた。
そして、長針が半周もしないうちに作品が終わり、カウンター席の平井さんを皮切りに皆が拍手する。
「……サリンジャーの短編って、私は初めてだわ」と奥さん。
「主人公の男が、なんだか『天然』ぽいキャラだね」
コホンと咳払いした後で、平井さんが最初の感想を述べ、テーブル席の女性陣に視線を預けた。
「仲の良い夫婦でも、ちょっとした価値観の違いで喧嘩したり、とんでもない衝突が生まれてしまうでしょ。それが上手く書かれていると思うの」
マユミさんが小説をチョイスした理由を語りながら本の表紙を指で撫で、誰かの次の発言を待つ。
「夫婦ばかりか、親子でも兄弟でも……いわんや他人をや」
川柳でも詠む調子で平井さんが応えると、奥さんとマユミさんがアイコンタクトして笑い、いちばん人生経験の浅いわたしが置き去りになった。
物語の凡庸な主人公に、なぜかソゲさんのイメージが重なり、「いわんや他人をや」というフレーズでノリコのことを思い浮かべる。
それから、斜めの陽射しを窓ガラスに受け入れながら、わたしたちはいつものようにフリートークを続け、大いに語り、大いに笑った。作家を目指している集まりじゃないので、テクニカルな論評ではなく、夫婦喧嘩のシーンがどうだったとか、登場人物のセリフの感想とか……物語の些細な部分を肴にしたおしゃべりだ。
「ヒロコちゃんは結婚相手への理想が高いんじゃないの?」
主人公の子供じみた行動をわたしが嫌疑すると、奥さんが首を傾げて言った。
昨晩のノリコと同じ指摘にドキッとしつつ、角のない物言いに自己分析を強いられる。三十路に近づき、神経質になったのはたしかだ。交際に臆病だったり、男性への不信感があるわけじゃないけど、「いまだったらあんな男と付き合わなかった」って、過去の恋愛を秤にかけてみた。
(4/8へ続く)
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