第三話

 もう朝の刻だと気付いたのは、ミルテが広間に到着してからだった。

 鐘の音に気付いてたくさんの神殿の者が集まってくる。神官などは鐘のある方面から、見習いや写譜師、知学師等は神殿外にある各々の棟からやって来る。中に慌ただしく衣服を整える者を見て、ミルテははっとした。

 ____沐浴も何もしてない!

 神殿の規律は厳しく、身嗜みや清潔については教官に厳しく叩き込まれる。神の担い手とも言われる神殿で働く者は、精錬潔癖ではなくてはならないのだと。逆に怠っている者は神への冒涜として懺悔室に放り込まれる。懺悔室の厳しさは____言うまでもない。

 そんなミルテはなるべく神官たちに見つからないよう、人々の間に隠れることにした。神殿関係者全員が集まるとかなりの数になるのでこれは好都合だ。

 こっそり溜息を吐いた時、横の誰かに肘がぶつかった。謝ろうとして上を向き、ミルテは驚いて身を引く。

「イグラス先生!」

「うん、おはようミルテ」

 何とも憎たらしい顔を見て、皮肉でも言ってあげようかな。なんて思ったミルテはふと気付いた。

 _____隈がすごい。

「先生。もしかして、徹夜で調べ物でもしてました?」

 すると、イグラスは目をこすった。

「あ、やっぱりわかる? 昨日ミルテから渡された紙を見てたら火が付いちゃったんだよね。だから全然寝てない」

「……身体に障ると神官に懺悔室に放り込まれますよ」

「そこは心配しようよ。ってそんなこと言うミルテも、昨夜は書の間に泊まったんだろ?」

 ____ばれてる。

 ぎょっとしたミルテは、慌ててペタペタと自分の顔を触ったり徽章の位置を確認したりした。すると、ふっと鼻で笑う声がしてミルテはむっとする。

「髪型が崩れてる」

 イグラスの指摘に慌てたミルテは、後ろで一本に結わいていた髪紐に触れる。

「やだ……どうしよう」

 嘆きつつ、ミルテは前方に目をやった。もう少しで要件を伝えるようだ。

「フード被っちゃえばいいんじゃない?」

「……」

 なんとも無責任な言葉。イグラスの性格はわかっているつもりでも、何故か期待してしまう。

 ____授業の時みたいなしっかりさが、何で日常に出てこないんだろう。

 思わず物憂げな溜息を零すとぽんと肩に手を置かれる。うんざりして横を向くと、イグラスは眩い笑顔でぐっと拳を握った。

「うん、頑張れ!」

 ミルテは今日始めて、この性悪な先生を殴りたいと思った。





 カーン、と一際大きな音が響き渡る。紛れもない、あの鐘の音だ。神殿の床や壁を反響して威力が絶大となった鐘の音は、広間に集った人の耳を破壊する。無論ミルテも耳を塞いで顔を顰めた。

 隣のイグラスの呻く声が聞こえる。不眠にこの音はかなり頭に響くのだろう。「鐘を鳴らしてる奴を殴ってやろうかな」その不穏な言葉は気の迷いだと思う。多分。

 集った人々からの文句と呻きがさざ波となって前へ伝わる。耳を塞いだまま前を見たミルテは、神官の一人が前に進み出るのを捉えた。

「皆に集まってもらったのには理由があります。まあ、此度の鐘は喜ばしいこととは言えませんが。詳しくは、神官長からお話が」

 鐘の音に臆することなく、何とも清らかな笑みを振りまいたのはレイド・ベルティエ。ステンドグラスからの光を一心に浴びて美しいはずなのに、ミルテはぶるっと身震いした。ミルテは、少なくとも他の者よりレイドのことをわかっているつもりなのだ。

 と、再び響く鐘の音。先程より幾分抑え目な音量だが、ミルテ含めた人々を不快にさせるには十分である。例に、イグラスなど舌打ちしそうな勢いだ。先生の舌打ちを止めるため、ミルテはやんわりと服の袖を掴む。人を射殺しそうな鋭い碧眼とかち合ったけれど、だめなものはだめなのだ。

「……これは、鐘の音の管理者に忠告しておかなければいけませんね」

 レイドの声音は氷点下まで落ちている。けれど気付かない見習いの少女たちは、きゃーと頬を染めて崇拝顔だ。

 気を撮り直して、ミルテは姿勢を正した。神官長はこの神殿を管理する者。神の位置に近い者として敬われる。

「ベルティエ殿の言った通り、此度の鐘は喜びを意味しているのではない。非常に重大な件についてだ」

 刻まれた皺に強面の顔。白髪に金色の片眼鏡モノクルを掛けた神官長の重々しい声に、自然とざわめきが止んだ。ぴりっとした緊張感に背筋が伸びる。

「17日後、巫女が始祖王ナサの祭殿へ訪れることになっている。冥府の王から人世を奪われることのないよう、安寧を願う大切な儀だ。しかし、祭殿に供える聖杖が消えた」

 聖杖。

 ミルテも一度だけ見たことがある。銀に瑠璃色の宝石が無数埋め込まれた、自分の背丈を超える長さの聖杖。魔術を扱える者はその聖杖を退魔用に使い、剣に見立てることもあると言う。

 途端にざわめきに包まれた広間は、神官長の咳払い一つで静けさを取り戻す。

「聖杖が消えたのは昨日の祝祭日だと把握している。保管場は私を含め数人の神官しか知らない。だと言うのに聖杖はまんまと盗まれた」

 まるで自分たちを責めているような声音に、ミルテは唾を飲んだ。隣のイグラスから「そりゃまあ大変ですなあ」などと呑気な言葉が聞こえたのだが。

 ……空耳、かな?

「念のため聞きたい。昨夜、この神殿内に篭った者は居るか。居れば前に出よ。無論、神官は抜きで、だ」

 ミルテはひっと小さく叫んだ。それはイグラスも同じだったようで、えー……と言っている。

 ____でも、出なきゃいけないんだよね?

 そう思ってちらりとイグラスを盗み見ると、盛大に顔を顰めた顔が目に入った。

「先生……」

「え、行かないよ。俺はそう言うのほんとごめんだから行かないからね」

 ないないない。と高速で手を振られ、ミルテは潜めた声で言い返した。

「これで出ないでもし分かってしまったらどうするんですか」

「確率は限りなく低い。から、大丈夫。うん。だって俺は神殿に篭る常習犯。それでおまえ以外の誰かと会ったことなんて一度もないからね」

 ____先生って本当に……

 ミルテは髪をぐしゃぐしゃと掻き回したくなるのを堪えた。これじゃあ、前に出るのは私一人。人前に出るのは嫌なのに、どうしようもないではないか。

「居ないのか、前に出る者は。今朝、神殿内から出てきた者をベルティエ殿が把握していると言っているが」

 これには逃げも隠れもできない。だと言うのにイグラスはどこ吹く風だ。頑張ってーと軽く囁かれ、ミルテはイグラスを睨む。

 ____しょうがない。

 ミルテは意を決して前に出ようと、まずは人の間を横に通り抜ける。身体が当たったりしてしまい、すみませんと言いながら通ると好機の目が突き刺さった。

 カツ、と響く靴の音。普段は感じない緊張に冷や汗を流しながら、早足で前へと急ぐ。神官長のその琥珀の瞳がこちらを捉えた途端、ミルテはぎゅっと唇を噛み締めた。

 ____大丈夫。だって私は書の間に居ただけだもの。

 大丈夫、と繰り返しながらやっとのこと前へ到着する。何だか、広間が何時もの倍長く感じられた。

「司書のミルテ・ファプスだね?」

「はい」

 思っていたよりも穏やかな声音で聞かれ、ミルテは驚きながらも頷いた。と、神官長の背後に控えていたレイドがすっと動く。神官長に小さく耳打ちした動作をただ目で追いながら見ていると、レイドがこちらを向いた。

「ファプス」

「は、はい!」

 焦ってどもり、かっと顔が熱くなった。

 しかし、そんなことお構いなしにレイドは耳元に顔を寄せて来た。場違いだと思うけれど、何だか凄く良い香りがして更に顔が熱くなる。

「イグラスも、昨夜神殿に居たよね?」

 耳にかかる吐息がこそばゆい。けれどそれよりも、詰問するような凍えた声音が怖い。ミルテは一瞬迷ったものの、正直に答えることにした。

 嘘を付いたら後が怖い。

「……はい。会ったときは書の間に本を返しに来ました。今朝聞いたことには……あの、研究で篭ってたみたいです」

 言って本当に良かったんだろうか、とミルテは暫し後悔した。この場合、レイドには感謝されてもイグラスには恨まれる可能性があるからだ。

 ありがとう、と微笑まれ、ミルテも小さく会釈で返す。けれど心は少し重い。今日何度目かの溜息を尽きたくなっていると、たくさんの視線を感じているのに気付いた。

 再び神官長に耳打ちするレイドを、人々が好奇を隠しきれずそわそわと待っているのだ。

「私から申し上げます。今朝神殿内から出てきたもう一人の方、早く前に出て来なさい。ファプスの証言もありますが、それでも出ないと言うのなら……わかりますよね?」

 顔は見えないが、空気が一気に凍えたのを感じた。だから言ったのに。とミルテは思う。

 再びざわめきの声。ミルテは俯きながら、きっと不機嫌な顔をしているだろうその人を少し哀れんだ。

「では。昨夜神殿に居た二人は、この後神官長の室に来ること」

 昨夜までは予想しなかった未来に、ミルテは嫌な予感を感じた。

 ____何か巻き込まれそうな感じ……



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